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『三島由紀夫と歌舞伎/三島由紀夫研究 (9)』鼎書房・刊

鼎書房から刊行されている松本徹・ 佐藤秀明・ 井上隆史の三氏が「責任編集」者となっているシリーズの『三島由紀夫と歌舞伎/三島由紀夫研究 (9)』を読みました。

冒頭の国立劇場・織田紘二氏と責任編集者らとの「座談会」が非常におもしろくて、時間が経つのを忘れたくらいです。織田さんといえば、三島由紀夫が書いて国立劇場で初演された『椿説弓張月』には執筆段階から関わっていたためNHKの番組も含め、三島との歌舞伎制作秘話などは得意(?)とするところですが、この本の対談は本物の演劇関係者の秘話です。この研究書でさえ、ところどころ、あえて活字にしなかった発言があろうことがぷんぷん匂いってきますが、織田さんの立場が変化したこともあるのでしょう。演劇関係者ならではのドロドロした秘話が展開されています。

その座談会でも触れられていますが、ひとつには松竹の会長だった永山さんが死去されている、というのもあるでしょう。しかし、歌右衛門への恨みつらみならまだしも、先代の勘三郎を自身が書いた『鰯売恋曳網』を「単なる喜劇に」したダメ俳優と見ていたなど、織田さんならではの証言が衝撃的です。

名優・歌右衛門とはいえ息子たちの代には劇界における政治力は父ほどもない。しかし、中村屋といえば、一時、精神的な病であろう理由から舞台をお休みしたとはいえ、まだまだ松竹が大事にしている歌舞伎の「家」でありますし、当代の勘三郎も人気役者です。なのに、昭和の頃に没した古い俳優とはいえあの大中村のことを別の物故者である三島がそのように見下していたという超が付くくらい過去の話で、尚かつアカデミックな研究書で小学館や講談社の本ではないとはいえ、活字として読めるような時代が来たとは、私も若くないわけです。(笑)

座談会のなかでは、勘三郎への批判は『鰯売』を書いたときの三島の年齢や、作品に込めた意図が歌右衛門でも理解していたものでもなく…と同情的ではありますが、「擬古典」の歌舞伎芝居を書いた三島と、名優と大根の評価が見物でも別れていた勘三郎を語る裏資料としては貴重です。

もうひとつ興味深いのは、戦後の進駐軍による歌舞伎統制から歌舞伎を救ったのがバワーズさんであるならば、歌舞伎らしくない歌舞伎から、自ら義太夫芝居を書くことによって今の歌舞伎というか昭和40年代以降の歌舞伎を救ったのが実は三島由紀夫ではないか、ということ。三島が歌舞伎芝居を書かなかったら、その後の歌舞伎は岡本綺堂の『修善寺物語』みたいなのが主流だったり評価されたりしていたかもしれない、とのこと。

その一方で織田さんは、歌舞伎戯作者としての三島はあくまで文士の道楽でもあった、と断言されています。当然のことでもありますが、国立劇場が開場した当時の混沌としていた劇界のことも含めて広い視点で、当時の「時代性」を紐解くような本も読んでみたいもの。

織田さんには国立劇場の歌舞伎なり文楽なり、まだまだ制作や演出にかかわっていただきたいと思いつつも、開場当時からの事情を知る貴重な証言者として、もっともっと「証言」していただきたいとも思いました。

(よ)

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2012年02月07日 18:15に投稿されたエントリーのページです。

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