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十二月大歌舞伎 日生劇場

 今月は歌舞伎座が建て替え工事中のため、珍しく日生劇場において、菊五郎劇団による歌舞伎公演となりました。出演者、配役、演目数、上演時間を考えるとちょっと物足りない気もしましたし、『達陀』を日によっては2回も出すプログラミングはかわいそう、とも思いましたが、気になって出かけました。通常の歌舞伎公演と比べると、劇場慣れ(もしくは歌舞伎公演慣れ)していない人たちと、団塊の世代あたり以上の年齢の男性客が多く入っているようにも見えた客席で、舞台写真の販売もなく、いろいろな意味でアウエー感が漂う公演だと思いました。

 個人的なことになりますが『合邦』とは不思議な巡り合わせがあるようで、はじめて観た文楽公演、はじめて歌舞伎座で観た歌舞伎の演目に、それぞれ『合邦』が入っていたのをハッキリ記憶しています。その当時は私自身も数え年で「つず(十九歳)や二十歳(はたち)」になるかならないかの年齢で若かったのですが、今回の公演で音羽屋三代の玉手御前を観たことになります。同じ役を血のつながった三代の役者で観る、というのも、今回がはじめてでした。

一、通し狂言『摂州合邦辻』四幕

序幕 住吉神社境内の場

 前回、国立劇場で坂田藤十郎が通しで出した際、この場面は住吉神社前に広がる松原の海岸線が広がる場面でしたが、今回の今井豊茂さんによる補綴では境内の場面となってしまっており、海岸線が少ししか背景に描かれていません。日生劇場の舞台機構上の制約などにもよるのかもしれませんが、すごくガッカリしました。いけない恋の始まりにふさわしいのは、開放感あふれる海岸線。(明治以降の埋め立てにより、現在の住吉大社は海岸線沿いではなくなりましたが。)坂田藤十郎は、その立地をフルに活かして俊徳丸を女だてらに大っぴらに口説くのですが、今回の上演では何かバタバタしたことを狭い空間で中途半端な式典風になっていたのが好きになれませんでした。

 花道から玉手御前らが登場するのですが、マジでおかしいと思ったのがその菊之助の佇まい。出て来た瞬間、主役なのか脇役なのか判断に困るヒロインって、おかしい。オーラ無さすぎ。風格も無い。しかも、こっちは舞台そばのいい席で観てるのに、目張り(アイライン)が細すぎて影が薄いというか、誰?って感じで困りました。雰囲気的に、もっと仕切るべき。俊徳丸が梅枝で、場面的にも自分が一番年長なんだから。頼みますよ。

 台本のせいもあるかと思うのですが、腰元たちの出入りといい、せわしない。俊徳丸(梅枝)と浅香姫(右近)のくだりを経て「毒酒」の場面になるまで、どこか落ち着かないのが気になりました。若い役者だけに任せるとこうなるのか。「毒酒」の場面は、まあまあだと思いましたが、ハッキリ言って俊徳丸を魅力的な超イケメン青年に見せられるか見せられないかは、玉手御前を演じる役者がするべきこと。残念ながら今回の菊之助は玉手御前を演じることに一生懸命で、相手役をどう見せるか、というところまでは無理でした。

 その菊之助で致命的なのは、必要以上に玉手御前を老け役に見せようと要らない努力をしているところ。数年前ならいざ知らず、菊之助ももう実年齢二十歳前後の役者よりは黙っていても年上に見える年頃となりました。何もしなくても俊徳丸を演じている梅枝よりは年上なんだから、逆にもっと私はあなたと波長が合うくらい気持ちは若い女なんだからね、みたいな若々しさが欲しいもの。歌舞伎役者って不思議なもので、老人になってからしか出せない若々しさがあるものですが、それは無理にしても、もうちょっと「若く」玉手御前を演じて欲しいもの。もしかしたら武家の女と年増(今風に言えばアラサーの女性)を同じか酷似しているものと勘違いしているのかもしれないですが、武家の女である必要はあるにせよ、玉手御前は年増ではない。

 その菊之助がもうひとつ、立女形として、また主役(ヒロイン)としてすべき仕事は時間を自在に伸び縮みさせること。「毒酒」の場面も含めて、自分が出ている時は、たっぷり、もしくは自分の時間感覚で時の流れさえも仕切ってかまわない位に思わないで幹部俳優なんかしちゃいけません。そういった横暴さがあればある程に俊徳丸は困り果てるのですから、主役のワガママって芝居の上ではプラスになることも多々あるのですが、今の菊之助には理解できないのでしょうか。それとも、やっているけど、客には伝わってないのでしょうか。

 梅枝については、全編よくやっていると思いました。ふだん女形でしていることが、前髪の俊徳丸として立ち座りからすべてにおいてプラスに出ていたと思います。

 右近ちゃん、まだ高校生で、義太夫の稽古をしていたとしても芝居で使うには無理な年齢なのはわかりますが、やはり発声はきちんとしないと。声だけじゃなくて、動きもぎこちない。余計なことはしてないと思いますが、もうちょっと無駄な動きを削ってもっと恋心を仕掛けて欲しいもの。そうでないと俊徳丸の魅力が表現できません。ついでに言うと、俊徳丸を無作為の罪作りにするには、玉手御前と浅香姫がダブルタッグでやらないといけません。

 女形は女優でもなければ女でもないことは承知しています。しかし、女の性(さが)を演じるには、男特有の遠慮や制御は無用。役者ならもっと女を知らないと。芝居の多くは現実ではあり得ないような非日常をそれらしく演じるものなのだから、常識的に考えてはいけません。実際の言動で表現することも大切ですが、やはり秘めたるエロチシズムをきちんと持たないことには所詮、歌舞伎芝居における女形特有の「色」は出ないのです。スキャンダル(醜聞)の意味を今一度、考えて欲しいです。歌舞伎に優等生芝居なんか、いらない! 極端さも歌舞伎芝居や人形浄瑠璃の一部なんだから。


二幕目   高安の場
    同 庭先の場

 なんで権十郎のあんな芝居(演技)を大歌舞伎の名のもとに見せられるのか。悪党やるなら、もっと図太くでっかくやって欲しいもの。屋台(大道具)や舞台の間口の寸法にも問題があるのかもしれないが、あれじゃあ猿芝居。演出上も工夫が必要。あくまで、こんかいの台本でやるなら、ですが。

 團蔵も、今回の台本が悪いのか彼の演技力が問題なのかはともかくとして、とても館の主人には見えなかった。こういう不具合は、おそらくイヤホンガイドを聞きながら観劇されている方のほうが分りやすくていいことだと思いますが、どうせなら、そんな解説なくてもわかるように上演して欲しいもの。

 「庭先」ですが、これは時蔵が羽曳野を演じていてよかったです。菊之助とは普段からは同じ舞台に出ていますが、ある程度は息づかいなどを承知している劇団ならではの強みはこういう場面で出ます。役柄的にも、やり過ぎず、相手(菊之助)にやらせる懐の深さがよかった。時蔵は、家系的には勘三郎や吉右衛門と行動を共にしていてもおかしくはないのだが、ずっと菊五郎劇団での客演が続いている身。そういう事情もプラス作用したと思いますが、本人のおぼっちゃん育ちもこういう場面ではよい結果となりました。魁春ほどではないにせよ、武家の女という枠組みに収まった形に出来たのも手堅い。

 一方の菊之助ですが、古典になりすぎず、恋に狂った今どきの女でなくてはなりません。かつての菊之助ほど神経質な芝居にはなっていなかったとは思うのですが、「奥庭」の八重垣姫ではないのですから、いけない恋路を狂わしいばかりに自己正当化して権力(家)に逆らっても、女だてらに男を追い求めるとんでもない武家女をどこまで表現できていたかといえば、やはり段取り以上のことはあまりできていなかったと言わざるをえません。

 この「庭先」の場面があるからこそ、「合邦庵室」の場面での「恋」が効いてくるのですが、やはり奥方であってこそ姫ではない、という破廉恥さの度合いの違いがイマイチ表現できていないようでもどかしかったです。姫ならばおっとりとした感情だけが前面に出てもいいと思いますが、玉手は後妻です。痛ましいくらいに俊徳しか目に入っていない女の極端さが欲しい。ここらへんは、赤姫ももっと経験しないといけない部分なのか。通しで歌右衛門は玉手御前を演じていなかったと思いますが、大成駒がこの役を演じて好評だったのは、きっと赤姫をたくさんこなしていたキャリアが裏ごしのように味わいに寄与したからであろう。

 菊之助が悪かった、とは言いません。でも、せっかくの場面なのに、役の奥深さを加えられないのであれば、意味がない。共演者へのダメ出しが玉三郎並であると伝え聞く菊之助。だったらね、と言わせてください。


三幕目 天王寺万台池の場

 NHKのテレビ中継用に毒抜きしたような端折り場面。

 本当は「らい病」なのに、そのようには言わないで「こつじき(乞食)」という表現が精一杯の台本に怒りを覚えます。

 また、門前にあのような藁の家をひとつだけ無理矢理置いてしまっている処理方法もいかがかと思います。門前なのにらい病の人間をiPad発売直前にソフトバンクのショップや銀座アップルストアの前に並ぶファンよろしくテント張ってもいいなんて、そんな世界があったのでしょうか?

 原本に基づいて長ったらしく上演したら客が退屈するからしたくない、というのは菊五郎の考えでもあるかと思われます。あくまで想像ですが、政岡を演じても雀のくだりをカットする人です。客がどこで退屈するかしないかには、どの役者よりも敏感な人。また、松竹も改築のため休館中の歌舞伎座の分を取り戻すべく、1日に2回公演が可能なようにしなくてはならないのですから、ある程度の端折りは仕方がないでしょう。しかし、この端折り方はいかがかと思います。こんなやり方が、NHKで中継されてハイビジョン映像で後世まで残ることに恐ろしさを覚えます。

 ただ、浅香姫を演じた右近ちゃんと俊徳丸の梅枝によるほぼリアル年齢ペアにはうっとりした。浅香姫が見るも哀れな俊徳丸本人に対して俊徳丸のことを「美しい」人と言う場面の残酷さと切なさは、本当によかった。現実には女形でありながら声がガラガラ気味の高校生・右近ちゃんではあるが、その年齢なりの「おぼこ」な姫は、演技力の不足という現実を、芝居という虚構の空間では、すばらしかった。同じ役でより良い芝居を見たいのであれば、芝雀さんにでもやらせればいいことなのでしょうか、菊之助の玉手である以上は、そんなことはしたくてもできません。そういう制限が良い方向に作用した場面でした。

 菊五郎が玉手の父、合邦道心として登場するのですが、この悲劇にこのような明るい合邦道心というコントラストは菊五郎劇団の『合邦』だからなせる技。ここまで明るい合邦道心がこれまでにあったとは思えないが、いかがわしいと表現したくなるような宗教活動をしているのですから、これはこれでいいのでしょうが、あくまで平成の『合邦』。菊五郎の判断が間違っていたとは言わないが、こういう形で見せられたら、かねてからの『合邦』という演目のファンは、追いていく気になるかならないかの分かれ道でもある。昭和の大歌舞伎に例えるならば、澤村宗十郎が合邦道心を演じるくらい、明るさと引き換えに人によっては違和感があるであろう配役。段四郎ならともかく。

 ここまで明るい菊五郎ならではの合邦道心を歓迎したいとは思うが、逆に言うのであれば、羽左衛門亡き菊五郎劇団にあって、老けた男役をできる役者がいない現実を突きつけられているような気持ちにもなる。かつては今の仁左衛門のお父さんの仁左衛門も演じていた役ではあるから、菊五郎が演じてもおかしくはないとはいえ、これは海老蔵に助六をさせるために今の仁左衛門が髭の意休を勤めていいのか、ということに匹敵するくらい、実は問題があると思うのです。

 意休も多くの役者が演じたいと思う役ではないからほぼ同年代の玉三郎が揚巻を勤める『助六』においても左團次さんが手がけてますが、役者の層が薄くなってきている平成の大歌舞伎においてさえ、果たして菊五郎が演じるべき役であったのか。複雑な気持ちがします。今回は、息子の菊五郎に玉手御前をさせるため、というい大義名分があるとはいえ。

 幕切れ、俊徳丸を乗せた車を浅香姫が曳いて花道を歩く姿はけなげであり、菊五郎の底から明るい合邦道心とのコントラストは、それそれで、絶妙な味わいがありました。花形とも呼びたくないくらい若い役者と同じ舞台で合邦道心を演じる菊五郎。いくら通し狂言として成立させるためとはいえ、その策には、結果的に舌を巻きました。さすが七代目。お父さんの梅幸に匹敵するくらい、敵を作らず、息子の世代への移行をスムーズに行ないはじめているのでしょうか。なかなかです。


大詰 合邦庵室の場

 菊之助が玉手御前を初役で5月に大阪・松竹座でこの場面のみ演じた際、玉三郎の指導を受けました。

 これはおかしな話です。玉三郎は、玉手御前を演じたこともないし、噂では嫌いな役なんだとか。阿古屋などと違って歌右衛門が生きているうちは歌舞伎座で演じられなかったといった理由ではなく。

 海老蔵の事件のおかげで、菊五郎が菊之助に対して、謙虚に先輩に教わってかわいがってもらえ、という教育方針であることが再確認できましたが、それにしても、頼まれたからといって教える玉三郎も玉三郎。

 確かに存命中の玉手御前経験者で菊五郎以外で、となると芝翫か雀右衛門か坂田藤十郎しかいませんが、なんとかならなかったものでしょうか。本当は、又五郎存命中に教えてもらってたらよかったのかもしれません。

 ここからは想像ですが、玉三郎・指導の玉手御前の出来ばえに菊五郎は不満だったのでしょう。自分の目が届く形でもう一度させたい、と決心したに違いありません。でなかったら、こんな形での再演は、なかったのでは?とも思えるのです。自分でも玉手を演じられる人です、菊五郎は。

 しかも、その玉三郎に指導を受けたから発声がおかしくて、京劇みたいな音程で玉手を演じているから「ガッカリすること間違いなし」と知人に忠告されていたのですが、あくまで菊之助の玉手としては、よくできていたと思いました。

 確かに、時々セリフまわしが玉三郎チックになります。いったい誰の「声」で演じたいのか、理解に苦しむ個所もありました。しかし、あれだけ神経質で芝居に華もなければスケール感もない菊之助が、おじいさんの梅幸を彷彿させる頑固さとマイペース感でよく演じていたと感心しました。あの菊之助が、お姉さんの寺島しのぶに遅れること幾数年で、女役の狂気をまがりなりにも演じられたのです。これは半分、奇跡のようなものです。揶揄のように聴こえるかもしれませんが、テラジマ・カズヤスが、見かけだけお父さんやお母さんに似ているのではなく、演技力でちょっとはおじいさんを思い起こさせたのです。すばらしいことです。

 菊之助の出世作と言われるようになるかもしれません。

 しかし、細かい比較をおじいさんとすると、やはりまだまだ、という部分も。例えば、梅幸は尼になって髪切るのはイヤ、色街…という部分はあえてチョボ(竹本)に渡して所作だけにして、これがまた何とも言えない色気と執念を同時に歌舞伎らしく表現していましたが、菊之助は全部、自分の台詞にしてました。こういう決定権、誰にあるのかは分りませんが、富十郎が『寺子屋』で武部源三を演じる時「せまじきものは宮仕え」をあえてチョボに語らせて自分は思案に暮れる姿を見せることで表現を深めていたように、工夫できなかったものなのでしょうか。

 故・尾上多賀之丞はその日記に、梅幸はチョボの訓練をまともに受けていないのだから時代物は無理、と辛辣に記しました。そんなことを言ってしまったら、今の役者、みんな不合格になってしまいますが、これから菊之助がこの役をどうやって自分のモノにするかは、やはりチョボとのつき合い方になるでしょう。声の無い玉三郎とは違って、太い声も出せる弁天小僧の家のおぼっちゃんです。海老蔵の仲間になりたくないのであれば、義太夫はきちんと学ぶべし。そして、義太夫ものの芝居で、どこまで自分が台詞として扱うか、吟味すべきです。梅幸さんの時代と今とでは、チョボの質があまりにも違いすぎるという側面もあると思いますが。

 菊五郎の合邦道心、明るいながらもこの場面では圧倒的な説得力を持ちます。その妻おとくの東蔵、客演の身であり、普段は菊五郎の母親役を演じるような形でもあることから、空回りしている部分も多少はありながらも、明るい菊五郎の道心に合わせているあたり、なかなかのもの。ただ、やっぱり菊之助の母には老け過ぎている。しかたがないことですが。

 この場面以外にも松緑の奴入平は手堅いのですが、松緑ほどの人が演じる必要があるのか疑問です。年令的なバランス的には何の不満もありませんが、おそらくは本人の性格による、おっとり感とガツガツしたところの無さが、ちょっと残念。肉体的な説得力は抜群でしたが。

 道心に刺されて瀕死の状態になってからの玉手で、菊之助は観客の涙をさそっていました。それはそれで大きな成果だと思いましたが、あの状態では、もっと自我(エゴ)を捨てたほうがいいし、芝居を抑えたほうがいい。何もできない、語れない、そんな姿のほうが、もっともっと涙を誘うことになるのです。京劇でもオペラでもなく、何もしなくても間が持つと言われる人形芝居でも出来ないことが実は歌舞伎俳優には許されていることは何であるのか、よーく考えて欲しい。そして、何もしていなくても共演者がすぐそばにいることも。

 菊之助の歌舞伎役者としての旅は、ようやく品川宿くらいには進んだようです。


二、『達陀』

 松緑がおじいさんにまた一歩ちかづいたようでうれしくはありましたが、どうして相手が時蔵なのか。不満です。その時蔵のためだけに花道のすっぽんを作ってしまって、いいんだか悪いんだか。

 当代の松緑も大好きだが、1日2回公演の日に観たことが悔やまれる。

(よ)

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2011年01月09日 21:12に投稿されたエントリーのページです。

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