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国立劇場三月歌舞伎公演 通し狂言『新皿屋舗月雨暈』レビュー

 松緑の宗五郎が見たくて見たくて、昨年から楽しみにしていた芝居です。確実にいい席で二度観たくて、通常とは違うルートで切符をお願いしたくらい期待していましたが、松緑は裏切りません。毎月のように芝居も所作事も上手いことを証明しているような役者ではありますが、二代目(おじいさん)のイメージも強い宗五郎を早く見たいと私は3年くらい前から四代目(当代)の宗五郎を望んでいました。

 普段、歌舞伎を観ていれば自明のことではありますが、菊五郎・團十郎より若い世代で宗五郎など江戸の世話物で主役を勤められるのは、勘三郎・三津五郎を除けば松緑しかいないのです。今月の芝居で松緑が世話物の主役も“できる”ことを正式に証明(お披露目)した形になります。蜷川幸雄演出の『十二夜』ロンドン公演なんぞに参加せず、よくぞ宗五郎をつとめてくれました。それが松竹(かいしゃ)の都合であれ国立劇場の都合であれ、ありがたいと思います。

 今月の国立劇場歌舞伎公演ですが、「花形歌舞伎」で松緑と孝太郎が主役をつとめる形にはなっていますが、“通し狂言”として観た場合、前半の酒乱(お蔦を殺すお殿様・磯辺主計之助)を演じた友右衛門と、後半の酒乱(宗五郎)を演じた松緑が、物語の要となっています。また、芝居としても二人の演技がすばらしく、通し狂言としての構成が成立してよかったと思います。普段、あまり劇団(一座)の芝居にはなじみのない孝太郎は熱演こそしていますが、劇団芝居特有のバランス感覚はありません。孝太郎は善くも悪くも『すし屋』のお里役者。前面に芝居を押し出すことで成立する演目では大丈夫でも、劇団芝居となると困ったちゃんになることもあります。今回は困ったちゃんではありませんでしたが、相変わらず歩数や正面を見る時間は長くても、いったいどこが“しどころ”で感情表現の見せ場なのかよく分からない緩急というかダイナミックの不足している演技でした。後半、宗五郎女房のおはまは悪くなかったと思いますが、前半のお蔦との二役は本当によかったのだろうか、と疑問の念が残ります。

 河竹黙阿弥の作品を今回は台本の調整を含んで菊五郎が「監修」の形で参加しました。松緑に宗五郎を教えられるのは菊五郎しかいませんが、公演プログラムに掲載された菊五郎の文章を読むと、いまの観客に通じるようにと、特に前半部分に配慮したことが分かります。話は脱線しますが、古典落語でも江戸時代の身分差が前提の部分が大分かすんできてしまっているように思います。落語でバカを象徴するキャラクター“与太郎”は、そのバカな部分だけでもいまの客にもそのおもしろみは通じますが、生まれながらの【身分制度】と個人が望むことで選択可能な【ライフスタイル】の区別は現代では分かりにくくなっています。“与太郎”や『粗忽長屋』のホモソーシャルな主人公二人など、現代の人間がどれだけそこら辺を理解しているのか普段から疑問に考えていたので、菊五郎の配慮はもっともだと思いました。(菊五郎は決して吉右衛門のようにペンネームをつかって台本を書くことはしない形になっていますが、菊五郎ほど古い台本などを読み込んでいる人もいないと聞きます。)格差社会はいけない。貧困で高校へ通えない。自己責任の世の中はおかしい、といった論調や主張も取り上げられるのが時代(いま)の流れとも見える世の中。生まれた家やその資産や格によって子供の人生や所属する「層」が決まるという明治維新以降も変わらないまま今日まで続いてきた実質的な制度を【おかしい】と叫ぶような人達が増えると、戦後の昭和とは別の意味で古典芸能は危機を迎えることとなるでしょう。

 四幕六場の通し狂言として上演された今回の『新皿屋舗月雨暈』、“—お蔦殺しと魚屋宗五郎—”という副題が付いています。しかし、上記の通り、また、菊五郎が公演プログラムでも述べているように、趣向としては、前半のお殿様の酒乱と、後半の庶民(宗五郎)の酒乱を見せることが前提となっているので、たしょう違和感のある副題でもあります。

序幕 磯部邸弁天堂の場
 客静めもなく、いきなりこの芝居の悪役、赤ら顔の岩上典蔵(亀蔵)が登場します。後半、「宗五郎内」がお祭りの日という設定が劇作上のコントラストが効果的で、趣向でもありますが、満月である以外、設定上のおもしろさや趣に欠けています。何も幕が開いたらいつものように腰元が数名並んでいるべきだ、などと言うつもりはありませんが、お家騒動なり、殿様が身分の低い魚屋の妹を妾にしたという伏線の背景が分かるような演出があってもよいのでは、とも思う。役者の演技にも言えることですが、役を演じることに一生懸命だけではダメなのです。大道具や書き割りには描かれていない、その場の空気なり、その役の人物に見えている“風景”を見物に伝える術を持たなかれば「俳優」とは呼べません。

 初めて見る人ならばともかく、いつもの『宗五郎』でおなぎが語る愛猫(差し金で操るかわいいネコでした)や悪巧みを視覚的に確認することはできましたが、なにか物足りない序幕です。お蔦と一緒に濡れ衣を着せられる若侍・浦戸紋三郎(亀寿)も登場し、帯を使った不義密通の話は、先月の文楽公演で観た『鑓権三』と共通するのですが、この芝居では、いまいちヤバい事態になった、という深刻さにも欠けています。どういう事態になってしまったのかは、この次の幕で十分に説明されるとはいえ。この場面の最後に、後にこの物語のヒーローとなる家老・浦戸十左衛門(彦三郎)が登場し、プチだんまりとなり幕。

序幕 磯部邸お蔦部屋の場
 この場面でお蔦の召使いであるおなぎ(梅枝)の登場。後半、宗五郎一家に事の次第を説明する重要な役回りもあるので、彼女の目にどう写ったかを描き切る必要があります。意外にも、と言ったら失礼ですが、梅枝のおなぎは、非常にまともだったし、初役で花形歌舞伎であることを考えると合格点以上の演技と台詞。ただ、ケバい腰元(京三郎と松寿)はいかがかと思う。長身である等、いかにも男らしい体型に目をつぶったとしても、場面や雰囲気にそぐわない化粧(かお)は控えるべきです。ジャックやそのお弟子さんである京妙さんは、決してトラディッショナルな化粧(かお)ではありませんが、それぞれ、顔の特徴や体型や顔の大きさ(小ささ)に合わせた化粧(かお)を作り上げているから成立しているもの。せめて女形なのか加役か分かるようにしてもらわないと、筋立てに対する妨害行為ともなります。誰か、若い役者に舞台化粧での「ぼかし」の効用性を教えてあげて!

 『加賀見山』の尾上部屋みたいな場面でもありますが、『加賀見山』は武家社会の話であるのに対して、お蔦(孝太郎)は魚屋の妹。あまり武家武家するのはどうかとも思う。身分制度があった時代に、魚屋から旗本の屋敷で囲われている身になり、そのまま続くと思われたバブル経済的な上昇気流が、お蔦は知らねど典蔵の悪巧みによって、一気に世界大恐慌的にダウンバースト化する、いわば「終わりの始まり」を描く必要があると思うのだが、そういう背景が孝太郎の演技だと見えにくい。おなぎだって、召使いであるから決して身分は高くないし、話の後半、魚屋へ独りで焼香しに行けるような身分であるから、踏み外したらどうなるか、という、いわばおなぎの「影」である必要もあると考える。身分制度のついでに言うなばら、いくら殿様に寵愛されていたとしても、所詮「女」である、という、もうひとつの身分差も、ある程度以上はハッキリさせておかないと、それこそ現代の観客、特に若い人達は、どうして殺されるの?みたいなことになってしまいます。こんにちでは、まるで禁句のような四字熟語(?)になってしまいましたが、江戸時代の話は身分差の上に【男尊女卑】であったという大前提を抜きには語れません。宝塚でも『エリザベート』でもないのですから、「女」に生まれた因果というか運命が腹にないと、平成の観客は納得しないのではなかろうか。そうでないと「皿屋敷」の趣向がいかせないとも思う。猫と女は化けて出るもの、というのは歌舞伎の“常識”でもあるのだし。

二幕目 磯部邸井戸館詮議の場
 お蔦が殺される場面で、上手には井戸と柳の木。お約束のような大道具。お蔦が不義をはたらいたと嘘を吹き込む岩上典蔵(亀蔵)と岩上吾太夫(橘三郎)の岩上兄弟が、主君である磯辺主計之助(友右衛門)の杯に酒を注ぎながら怒りと嫉妬心を煽り立てるのが見所。亀蔵は今回に限って言えばミスキャスト。あまりにこっけい味がありすぎます。お兄さんの市蔵であれば、昨年のこんぴら大芝居で見せてくれたようなサディズムがにじみ出てよかったろうに。陰惨な話ですから、あえてコミカルに演技させた方がいいというのも分からないではありませんが、現代的な心情やロジックから言えば、うっかり井戸の茶碗を割ってしまうようなうっかり者よりは、ドSの方がわかりやすいだろうとも思う。
 観ているだけでは分かりませんが、公演プログラムには、お殿様が「酒乱の上に癇性」であると書かれています。嘘の報告を聞かされて徐々に激高していく友右衛門の演技はすばらしく上手でした。(逆に、この場面に友右衛門が出ていなければ「鑑賞教室」も同然となっていたかもしれません。未成年の鑑賞を主眼にした公演で酒乱の話は出ませんが。)この場面だけは「花形歌舞伎」ではなく、大歌舞伎の風格でした。殿様は登場して、すぐに座布団に座り、お蔦を殺すまではその座布団に座ったまま、杯で酒を呑むこと以外、台詞と顔でしか芝居ができないにも関わらず、怒りが高じて神経が高ぶっていく様子がひしひしと伝わって来るのです。松緑もちょっとやってしまっていましたが、若い役者であれば、顔をしかめたり、といったズームカメラ向きの演技をして自分の表現能力の無さを埋めようとしますが、友右衛門はそれをしません。両隣に座る岩上兄弟と目線を合わせる必要がないとはいえ、友右衛門は効果的に、嫉妬まみれのお蔦への想いと怒りとを遠くに投げかける視線に込めるように、ジワジワと、沸々と感情がよくない方向へほとばしる様子を正座したまま演技してしまうのです。後半、宗五郎の酒乱は台詞や動きで表現する「陽」の酒乱ならば、こちらは内面的な感情表現しか許されない「陰」の酒乱。今回の公演は、実にバランスのよく取れた配役と演技になりました。パーティーなどで見かけると、満面の笑顔で本当にいかにも「いいお父さん」という感じの印象が強いだけに、友右衛門がここまで酒乱というか狂気みなぎる人物を最小限の動きと空間で表現してしまっている演技力に脱帽しました。(『高尾』でタタミ3畳ほどの動きで芸術的な踊りを披露したジャックの長男。半畳ほどの座布団で酒乱を演じています。)
 それに比べ、お蔦を演じた孝太郎は段取りにばかり気遣いしている演技でした。友右衛門のように、杯で酒を呑み一口ごとに怒りが高まるという瞬間的な真実の積み重ねが非常に上手であるだけに、孝太郎の、出て来た瞬間から、えーと、私はこちらから出てきて、亀蔵さんに箒の柄である先割れの竹竿で暴力を振るわれて、井戸に放り込まれたいいんですよね、って情報があらかじめ表示されてしまっているQRコードみたいな演技です。演らなくていいから、携帯でピピっと読み込んでそこだけト書きと台詞を読ませてもらった方が早いから、と言いたくなりました。舞台俳優であるならば、芝居の流れや段取りはともかく、その瞬間ごとの「今」を表現することで伝えてもらえないと、本当に意味がない。テレビで見ているだけならは、あ、孝太郎だ。ちょっとションベン、でもいいが、劇場ではそういうワケにはいきません。
 お蔦を一振りで殺すお殿様、余計なことをしないほうが身分の高さと品格と狂気を同時に表現できていました。公演プログラムには、この幕の最後「無惨な姿のお蔦の亡霊が現れた」となっていますが、実際の演出では、殿様が袖を引っ張られるもの典蔵らが、誰もおりません、と言うことで無気味さを出すことになったようです。確かにあの大道具の感じからして、お蔦が幽霊となって出て来たり、場合によってはちょっとケレン味のある仕掛けや演出も考えられるので、ちょっと残念な気もしましたが、通し狂言としてのバランスを考えると正しい判断とも言えますし、幕切れ、舞台前方中央に殿様を配置して幕にすることによって、位の高い侍でありながら魚屋の妹を妾にもらって大事にするといいながら殺してしまった良心の呵責が友右衛門の佇まいによく表現されていたからこそ、成立した演出とも言えます。
 今月の国立劇場賞、友右衛門が取れなかったらウソですよ!

 ここまでが1時間05分。30分間の食事休憩が入って、1時間20分の後半。

三幕目 片門前魚屋宗五郎内の場
 この場面で宗五郎を演じる松緑を見たくて劇場へ足を運んだというものの、直前の友右衛門の良さが休憩時間中チラついてしまいました。おかげで、冷静にこの場面を観られた気がします。
 お祭りの最中というコントラストがお蔦の死を際立たせている設定がいいです。茶屋の女房と娘が扇緑と嶋之亟。ちょっと老け過ぎ&顔が白すぎる&体が大きすぎるのがご愛嬌。でも、幕開きだけ出る役ですから、決して主役の邪魔はしないというバランス感覚は見事。特に扇緑さん。花道から宗五郎(松緑)が登場して鳶の通行人(萬太郎)に事情を話すところから松緑には説得力がある。年長の役者なら、黙っていてくれよ、と言っただけで、逆らえない雰囲気が出て、ああ、この祭姿の鳶は口止めされたのだなぁ、と感じますが、松緑のようにまだ若い役者がここで黙っていてくれ、と口止めするには、人徳のようなものが醸し出されないとウソになってしまいますが、今回の松緑は、その「徳」のようなものが感じられました。これが後に酒乱となる宗五郎とのコントラスト的な伏線にもなっていていい。
 帰宅したての松緑は凛々しい。歌舞伎座の『宗五郎』に比べたら実録物と呼びたくなるような設定年齢に近い配役が揃っているのがうれしい。宗五郎女房のおはま(孝太郎の二役)が戒名を渡されて「こんなになっちまんたんかだねぇ」という台詞はちょっと味気ない。芝居するところじゃないけど、引き渡されない遺体という背景があっての台詞。もうちょっと工夫して欲しい。父親の太兵衛が、これも二役の橘三郎。劇団芝居なら年長の脇役さんか老け役さんがすべき役ですが、今回は仕方がない。あまり酒乱の狂にからまない一歩引いた役とはいえ、数回は、もっと前に出てきて欲しかった。磯辺の家から説明がないため、おなぎが宗五郎一家への説明にやってきますが、梅枝のおなぎは、この場面でもかなりよかった。確かに菊之助と比べたら美貌もオーラも華もまだまだですが、事の次第を説明する台詞はわかりやすくて好感が持てました。繰り返しになりますが、おなぎは武家に奉公しているとはいえ決して身分は高くなく、また、お蔦の件に関して無念あふれる同情をしている優しい女でなくてはいけない、という点においても優秀。上品でありながらもお忍びの姫君のようではいけないのだ、ということを梅枝のしっかりした演技をしながらも親しみやすさを感じさせる芝居が再確認させてくれました。腕の使い方と手のひらを置く場所を工夫して若い女形らしくしているのもよかった。三吉が三津五郎の宗五郎で巡業した時に初役だったという亀寿。亀蔵と同じで、こちらもお兄ちゃんが演ったほうがよかったかも、と一瞬、考えましたが、亀寿は亀寿なりの風情というか、ちょっと現代っ子らしいところが、傍観者(観客)の代表みたいで好感が持てます。

 松緑の宗五郎は、予想以上に上出来でした。普段、舞台上の松緑を見ていれば世話物も上手だろうと分かることですが、菊五郎と一緒の舞台ではなく自分がシンになって初めて問われる「芸」もあると思いますが、ほぼ満点だったと思います。歌舞伎の常として、教えてもらったら最初は教えられた通りに演るものが決まりなので、松緑ならではの味わいはあまり期待していませんでした。しかし、松緑ならではの分かりやすは前面に出ていました。台詞が明瞭であるとか、説明的である、というのではありません。友右衛門がその瞬間ごとの「今」を積み重ねたように、松緑も「今」単位でリアクションする能力が非常に高いのです。つまり、「今」が本物であるから、いい芝居にもなるし、江戸の世話物になるのです。これまでのうらみつらみまで腹にあったら、少なくとも宗五郎にはならない。「今」が本物でも、これまでの経緯や過去まで遡ってしまったら橋田壽賀子ドラマ。松緑の上手さは、説明的な台詞にもよく出ています。自分が引き合わせたために妹のお蔦が身分違いの殿様の妾にしてしまったし、拝領したカネで借金返して今でこそ、それなりの生活もしている、という状況は、今回はじめてきちんと理解させてもらったのでは、と思えるくらい松緑の台詞は明瞭かつ、伝わってきます。また、他の『宗五郎』に比べて、涙というか、メソメソが少ないのもよかったかと思います。これは感覚的な印象で、厳密な評価にはならないと思いますが、おはまでも太兵衛でも、年長の役者が演ると、場合によっては泣きに逃げるというか、演技の隙間を埋めたりしているのか?と思えることもありますが、主役以外が欲張らないためか、今回の「宗五郎内」は、宗五郎の酒乱が見事に際立ったと思います。
 その松緑の呑みっぷりですが、これが見事。役者としては初役だし、細かい神経はいろいろな所に遣っているとは思います。でも、松緑の芝居は間の緩急こそやや不足していますが、断っていた酒に口を付けてしまうという大きな芝居は見事。初役でまだ初日から一週間も経っていない時点でこれだけできれば大したもの。同年代の役者は、松緑をライバルとしなければ、成長できないだろう、とさえ言いたくなります。おはまや三吉とのやり取りの間も若いので成立している部分もあるだろうが、脇役が「ああ、呑んじゃった。仕方がない」というリアクションでもり立てるのではなく、松緑は良い意味で自己完結型の納得させる呑みっぷり。酔いがまわってきて、おなぎに「お菓子ぃ?」と難癖つけるところも嫌らしくなくて本当によかった。樽を振り回すところでも、なあなあではない危なさを孝太郎と亀寿で表現していました。

四幕目 磯部邸玄関先の場
     同  庭先の場
 玄関先のおはま(孝太郎)は、世話女房らしくて良かった。宗五郎(松緑)の酔いつぶれた演技もなかなか上手いのですが、もうちょっと体鍛えてほしい。
 台本的には、通し狂言としての典蔵(亀蔵)に工夫が欲しいところ。典蔵の悪事を見抜いて主計之助(友右衛門)に謝罪までさせるヒーロー的な役回りの十左衛門(彦三郎)がメインであり、典蔵を捕らえるような場面は不要だが、『河内山』とつい比較してしまうのは、こちらの非。
 ひとつだけ松緑のマイナス点を。庭先で酔いから醒めたところで、自分がどこに居るのか分からない芝居をするのですが、顔をしかめるような演技だけは止めていただきたい。大劇場の歌舞伎芝居なのですから。立派な庭で、おそらく初めて見るような光景であることは分かりますが、見慣れた女房が目の前に居るんだけど回りは見たこともないような庭園。自分の困惑だけを表現したいなら詩人か小説家になるべき。顔だけで芝居したいならテレビドラマか映画に出るべき。困惑しながらも、自分の目には何が写っているのか、ということを客席の見物にわからせるのが俳優の仕事。せっかくだから友右衛門に相談するべき。

 前半部分で竹本がヤケに下手だったり、ところどころ「鑑賞教室かこれ?」とツッコミたくなるような瞬間もありますが、芝居好きにはそれなりの見所と役者にとってのしどころ満載です。

 これからの大歌舞伎は、黙っていても松緑の時代となること間違いありません。スキャンダルとスターオーラの海老蔵や新劇での評価が高い菊之助もいますが、歌舞伎に取り組む姿勢では、松緑のパワーと集中力と、歌舞伎役者ならではの華は一番。世代交代が進んで、若い頃に働き盛りだった好きな役者が年齢を重ねて、ついこの間まで演っていた役ができなくなったりする事実は、見つめることさえ辛かったりしますが、そういった不満を補う若い役者が必ず出て来てくれるのも歌舞伎の醍醐味。私の中で、松緑は立派なスター。父親代わりのような菊五郎の後楯が得られるうちに、もっともっと立役の主役を教えてもらい、舞台にかけてもらいたい。

(よ)

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2009年03月13日 22:14に投稿されたエントリーのページです。

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