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吉田玉男・宮辻政夫(聞き手)著「人形有情—吉田玉男文楽芸談聞き書き」

 オフィシャルな“芸談”本を生前には出さなかった文楽人形遣い吉田玉男の芸や考えが垣間見える貴重な本が出ました。「人形有情―吉田玉男文楽芸談聞き書き」は宮辻政夫氏が玉男さんと楽屋で交わした会話を14年間に渡って記録し、最晩年には原稿にして玉男さんにも見せていたそうですが、派手なことが嫌いな玉男さんは「出さんでええ」と断り、死後に遺族の了解を得て昨年末に出版となった本です。

 内容としては文楽の演目を玉男さんが手がけられた役を通じて芸談を引き出しながらも、入門の経緯や諸先輩は同期の人形遣いなど、バランスよくまとめられています。NHKアナウンサーによるインタビューとは異なり、この役の性根は?苦労される点は?とゲージュツ的なようでいて、実際にはあまり自由に語ることを許していないようなことはしていません。玉男さんが自由に会話を通じていろいろなことを自然な一人称で語っている姿が目に浮かぶようです。あれだけ共演していて、相手役も勤めている吉田蓑助さんとのエピソードなど、現在のような形になってからの文楽/文楽座のファンには、あれ?っと思うような欠落もありますが、他人を褒めちぎることで実は自分も褒められたい、と考えるような人でも、褒められたいと思って人形を遣っていた人でもなかったのであろう人柄のためなのだろう、と想像します。

 歌舞伎役者の本を読んだり、インタビューを聞くと、恩人である諸先輩に対する言及はともかくとして、身内親戚一族の話が多いのが当たり前だったりしますが、吉田玉男という人は就職先として文楽を選んで普通に弟子入りして、二度の徴兵にも関わらず58歳で人間国宝になったすごい人であるにも関わらず、襲名を含む派手なことが一切きらいな人だったらしく、大名跡ではなかった「玉男」という芸名を最高峰の名跡にしてしまった、とんでもなく最高の人だったことをこの本を読んで確認しました。確認すればするほどに、もう玉男さんを見ることができなくなった文楽公演に寂しさを感じます。昨年は吉田文吾さんまで突然、亡くなられるし。

 昨年、別の本を読んでいて、昭和30年代ごろ主遣いが頭巾をかぶらず出遣いが当たり前になった、と知りましたが、この本にも、文楽が松竹傘下にあった時代、大谷竹次郎社長が出遣い派であったことが影響しているのが分かります。(もう一人の松竹創業者・白井松次郎は頭巾派だったそうです。)松竹傘下の時代には、まるで有吉佐和子の「一の糸」のごとく、明治座、新橋演舞場、御園座でも文楽公演が行われていたことも語られているのも興味深いのですが、昭和35年に、歌舞伎公演で尾上梅幸の『奥庭狐火』に狐の人形遣いとして出演したことも語られていて、それが縁で、菊五郎劇団(特に梅幸と市村羽左衛門)との交流が生まれたことも書かれています。(69頁の写真を見ると、大夫・三味線の方々と共に文楽座が出演したような感じです。)余談ですが、羽左衛門も最晩年まで文楽を観ていた人でした。自分も国立小劇場で、最後列で文楽を観に来た羽左衛門を見かけたことがあります。幕内関係者から前日に、橘屋が観ることを知らされていたので私は数列前から確認した程度でしたが、たまたま隣に座った若い男性は驚きながら「羽左衛門さんですよね?」と興奮気味に尋ねていました。確か菊五郎劇団が出ていた大劇場の千穐楽の翌日が小劇場の楽日だった時だと思います。

 歌舞伎と重なる役や演目に関する内容もおもしろいのですが、『義経千本桜』の「渡海屋・大物浦」の段のことを、昔はそんなにしょちゅう出るものでなかったという呟きを面白いと思いました。これは興行の質や形もそうなのですが、おそらくはその時代ごとに観客の興味など、引いては国立文楽劇場ができてからのその意向などが反映されている、という側面もあるのでは、と感じます。現に歌舞伎でも、国立劇場が手がける、おもしろくてもおもしろくなくても「通し狂言」だったり「復活狂言」だったりするだけで入りが良いと言われますし、最近は、昭和の新作歌舞伎で史実に近い台本の歌舞伎を上演すると歴史マニア的高齢者(特に男性)が多く、普段の客席とは雰囲気が違うとも言われています。

 その反面、歌舞伎と同じような現象も起こっていたのが『先代萩』の政岡。歌舞伎でも昔は男勝りの役ということもあり、立役さんが加役のように演じていたものの、戦後は歌右衛門が得意の役としたことからも真女形の役のように思われていたが、平成になってからは、元々は女形もかなり演じているとはいえ、立役として人間国宝に指定された菊五郎が演じて評判になり評価されたように、文楽でも昔は立役の人が遣っていた役でありながら、いくら女形の素養が必要とはいえ、とある名人が演じてからは女形遣いの役みたいになっていた、とのこと。私は国立小劇場で玉男さんの政岡を観たことがあります。女でしかも乳母とはいえ、性根は武士である役の難しさや多面性もあるのでしょうが、時々の演じ手によって変化するおもしろさとダイナミックさが古典芸能にはあることを確認しました。また、玉男さんのような文楽の名人に役を教わる歌舞伎俳優(菊五郎、玉三郎など)が存在する以上、歌舞伎の演技論は、文楽のやり方、特定の人形遣いのやり方といった面での評価も積極的するべきでしょう。

 あと、おもしろいな、と思ったのが、玉男さんの贔屓だったという芦屋のおばさんの忠告。この本では二度ほど登場しますが、玉男さんに意見して、しかも玉男さんが納得してそれに従ってその後の演技を変えるとは見事なご贔屓さん。特に『野崎村』のお染が「大店のこいはん」である以上、縫い物してて歯で糸を切るようなことするわけない、という件は傑作です。(確かに、雀右衛門もお染は商人の娘とはいえお姫様のように演じる、と語っていたと記憶しています。)思考停止で松竹のスターシステム大歌舞伎を観るような感覚で文楽を観てはいけなかったのだ、と今更ながら反省。

 最後に玉男さんの思い出、ということで、蓑助、文雀、玉三郎がそれぞれ短い文章を寄せています。蓑助が、玉男さんとプライベートではほとんど付き合いがなかった、というのは寂しくもあると同時に、あれだけ舞台の上で共演していれば、と思う部分もあります。文雀は玉男の「首」の好みを近くで共演していた者としてよく観察していた、職人としての同僚であった印象を受けます。文雀と比べると蓑助は、玉男さんにとって舞台や「芸」の上での共演者であり同僚であったのでしょう。(父親が誰であれ、御曹司扱いは一切しない文楽とはいえ、全くの一代限りと、そうでない人達との違いがあったのでしょうか。)玉三郎の文章は、いかにも歌舞伎役者のそれで、芸の上での「父」と「母」の話ばかり。羽左衛門のように、文楽に敬意を払いながら観た役者もいれば、文楽の芸から学ぶことは学ぶけど、文楽には特に興味もない役者もいれば、文楽なんてほとんど観たこともない役者もいる。

 決して消去法や長命だけで最高峰となった人ではありませんが、しゃべることと目立つことが嫌い、と自著としての芸談本を存命中には一切出さなかった吉田玉男という生き方は、何かを教えてくれているような気がしてならない。

(よ)

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2009年02月17日 14:11に投稿されたエントリーのページです。

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