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山村美紗・著「小説 長谷川一夫

 長谷川一夫の人生は、読めば読むほどにおもしろい。母親が長谷川一夫のいとこだというミステリー作家の山村美紗が書いた上下二巻の「小説 長谷川一夫」(昭和60(1985)年刊)は本当におもしろいです。演劇の世界の外にいた人だけに、作家としての距離感と、文字として表現していない行間からも何かが伝わってくるような本です。芸能界や役者の世界特有のドロドロは少ないのですが、歌舞伎の門閥や世襲主義が長谷川一夫の人生や人となりに与えたであろう影響については明確です。

 他の本でも書かれているエピソードも網羅されていますが、この本は独特のディテール挿入が心憎いです。他の本には出て来ない付き人の証言もあります。しかし、著者もあとがきに書いていますが、あれだけ芸歴が長くて人気者でありながら一人称であれ三人称であれ、芸談や自伝/伝記といったものが極端に少ないのも事実です。

 個人的におもしろかったのが下巻。宝塚歌劇団のために『我が愛は山の彼方に』に続いて『ベルサイユのばら』を演出したことにかなりの紙数がさかれています。長谷川一夫は単に『ベルばら』の演出しただけではなく、その後の宝塚を定義づけた人であったことがわかります。スターはスターらしく登場するもの、といった教え(演出)は長谷川一夫が始めたものだともあります。中村又五郎は、国立劇場で歌舞伎を一度も観たことがないような若者に歌舞伎の演技などを一から教えましたが、長谷川一夫は女性だらけの宝塚で自分の持てるものを惜しげもなく与えることで指導したといいます。

 映画『若い人』を観て気に入った当時アイドルで人気者だった桜田淳子を自分の舞台(東宝歌舞伎「おはん長右衛門」東京公演・大阪公演)で相手役に抜擢したという話もおもしろかったし、才能を見抜く力とプロデュース力の高さを象徴するようなエピソードです。長谷川一夫と共演した女優さんを山村美紗はこの本のベースとなった週刊読売に連載されていた昭和59年あたりにインタビューしたらしいのですが、取れた証言を結局はその女優たち本人から使わないように、と言われたりと苦労したらしいが、共演した女優によって好き嫌いや複雑な感情を生むのも長谷川一夫だったらしい。

 自分が主役の舞台(東宝歌舞伎という名の大衆演劇)では共演の女優には衣装から演技から、長谷川一夫がすべて支配しコントロールして、誰も(特にプロデューサー)対等に話したり意見できる人がいなかったという。芸歴が長いので、長いスパンで「駆け出し」の女優と思っていても、本人はデビューした頃ならともかく人気からすれば一人前と思っていたのでヒドい扱いを受けたと感じる人もいたらしい。昔の常識が通じなくなっていたのに、通じるようにしないといけない、と信じていた部分もあったのでしょう。

 下巻の最後のあたりに書かれている後妻の繁(しげ)とのエピソードは強烈でした。彼女も長谷川一夫が前妻とはいえ師匠である初代中村鴈治郎の娘でもあった人との関係を、あまり心地よく思っていなかったであろうことは分かります。しかし、その繁というパーティで金婚式披露までした人生のパートナーが先立った後に長谷川一夫が目にした遺言の内容が長谷川一夫にとってはあまりの仕打ちであり、その精神的なショックが長谷川一夫の死期を早めたであろうという長男・林成年の証言にはすさまじいものが感じられます。舞台の上では、共演者であり相手役の女優の演技までほとんど完全にコントロールしていた長谷川一夫が、実生活では繁夫人にコントロールされていただではなく、自分には入り込めない成駒屋との縁への牽制策として、長谷川一夫と自分のは財産は名義も含めて完全に別のものとしていたあたりに壮絶さと夫婦や婚姻という形のむなしさを感じました。しかも長谷川一夫ともあろう大スターが、踊り(日本舞踊)については、元芸者とはいえ繁夫人の方が上だと信じ込んでいた、というあたり、個人的には繁という女性の空恐ろしい長谷川一夫独占欲と操縦能力の高さを感じてしまいます。

 だって、歌舞伎役者でもあった長谷川一夫が、歌舞伎舞踊は男の踊りであっても女形のそれでも、男が男の肉体で演じて美しく見せるからこそ「芸」であることを知らない筈がないのです。後妻が藤間藤子だったならばともかく、いくら政治家や有力者にも寵愛されたほどの芸者であったとはいえ、女性の肉体と女性の筋肉しか持っていなかった繁夫人の踊りが自分より優れていたと思わせていたとは。どんなスキャンダルよりも凄まじい。別な言い方をすれば、長谷川一夫という大スターがいかに孤独であったか、ということでもあろうし、簡単ながら長谷川一夫が自分と相容れない人達などを切りながらキャリアを築いた人であることも山村美紗は書いているが、そういう人であったればこそ、繁夫人とは出会いの頃ならばともかく、莫大な借金を抱えた後の経済的なパートナーという側面を考えても、人情や江戸前芸者の常識を無視してまで自分の名義で財産を作り、遺言では長谷川一夫は完璧に無視で娘の稀世に財産を遺したという女性である。有吉佐和子が長生きしてくれていたら、是非とも書いてもらいたかったような話です。

 あの長谷川一夫が、道行は浄瑠璃の文句があってこその風情であるがゆえに、それを理解しない現代の観客には不向きということで、道行は出さなかったというエピソードは、長谷川一夫は若い頃から地黒だったという以上に意外でした。

 大正時代に関東大震災があったこともあり、戦前は関西が芸能の中心でもあったようです。松竹株式会社だって元は関西からスタートし、昔は関西歌舞伎もにぎやかで、京都には時代劇の撮影所もあり、あの円谷英二でさえ、元は映画のフィルム現像などを手がけた技術者から撮影監督(カメラマン)となり長谷川一夫初期の映画にも関わっていたそうですが、戦後の関西は、一時的には歌舞伎も文楽も賑わいながらも急激に戦後の労働運動や娯楽や客の興味の変化もあって、古典芸能的には荒れ野となりました。長谷川一夫の本を読むと、彼の人生を追いかけているために、昭和30年代以降の関西歌舞伎の惨状などについてあまり触れられていませんが、長谷川一夫の活躍の場とは、昭和の芸能の中心地がどのようにシフトしていったかの歴史でもあるかと思います。

 長谷川一夫も京都の出である関西人。松竹だって東宝(東京宝塚)だって元は関西の会社。菊田一夫だって関西人みたいなもの。ただ、それが戦後の経済復興と、テレビ放送の始まり(NHKも民放キー局も全て東京)などでパワーシフトして東京中心になったことは、長谷川一夫の最初の妻と後妻の背景や行動パターンに象徴されているような気もします。なんぼヨソに女ができても子供さえ作らないなら、と大卒で教養もあるお嬢様でもありながら許した初代鴈治郎の娘と、実家は元々大きな建設会社であったとはいえ新橋芸者で恐らく一流の男しか見てこなかった(目に入れる気のなかった)江戸っ子の後妻。これだけでもたくさんの小説や芝居になりそうな話。本妻として男の性(さが)を受け入れた最初の妻と姉さん女房(5歳年上説と4歳年上説があるよう)ということもあり、天下の大スター長谷川一夫の所作(踊り)に注文をつけていた後妻のコントラストもおもしろいし、山村美紗に対して、そんな長谷川一夫を父に持った林成年が、結婚なんかするものでない、という信条であったことも書かれています。

 先読みが出来た、人一倍勘の鋭い長谷川一夫がどこかでお互いのメリットを認めつつ「惚れた女房」と信じることで、ある意味、夫婦関係という契約を受け入れていた繁が、実のところはビジネスパートナーでしかなく、見る人の目には、お茶ひとつ夫のためにいれてあげるような人物ではなかったが明らかだったのに、長谷川一夫にだけは見えてなかったというのだから、本当に何から何まで不運だったのを、美貌と演出力で補い長谷川一夫として生きた生命力と運と不運とが表裏一体だった人生はすばらしくもあり、すさまじくもあり、イケズなところが多分にあった人生だったのでしょう。

 ちなみに、本日(2008年12月11日)現在、松竹株式会社のウェブサイトで松竹が発売元となっている「長谷川一夫」のDVDやビデオを探すと1件たりとも引っかかりませんが、歌舞伎役者時代から松竹で映画スターだった時代に使っていた「林長二郎」で検索すると古い主演作品のタイトルがVHSビデオで3タイトルほど出てきます。71年前に東宝へ移籍した俳優に芸名の返還を求めたような会社とはいえ、「林長二郎(長谷川一夫)」といった表記をしようとしない松竹って、すごい会社です。

(よ)

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2008年12月11日 16:17に投稿されたエントリーのページです。

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