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乱歩×歌舞伎=ヒーローショー/国立劇場十一月歌舞伎公演「江戸宵闇妖鉤爪」レビュー

 福袋のような芝居でした。最初から本物を正札で買えるような人は買わないが、買うような人にはそれなりの満足を与える。期待を超えるイイ物も入っているが、とっとと捨てても惜しくもないような物も入っている。そんな芝居でした。

 原作の江戸川乱歩・著「人間豹」を読んでから観ました。脚色(岩豪友樹子)は昭和10年に連載が終了した原作を、みごとに幕末に移植していたと思いました。原作は昭和初期を舞台としつつも、まだまだ夜の闇が深かった時代の東京を舞台にしていて、人間豹という怪物(怪人)の存在が歌舞伎向きのキャラクターである、ということも成功の要因にはなっているとも思います。ただ、原作を読んでいないと意味不明の「目がつら」や明智女房のお文(春猿)が獣のぬいぐるみに入った理由など、イマイチ不明なところも残されています。

 その原作本(創元推理文庫)の解説部分に書いてあることですが、八木正幸氏が2001年に指摘している通り、「人間豹」は“特撮ヒーロー・ドラマの先駆型”であり、「仮面ライダー」にもつながるものがあります。この解説を観劇する前に読んでいたとはいえ、あまり意識していませんでしたが、人間豹=恩田乱学(染五郎)が二度目に、最初と同じ怪人の衣装で登場した時に、これは正義の味方が変身しないだけで、仮面ライダーと同じことだ、と思いました。

 それはそれでいいことなのですが、「土蜘蛛」や「茨木」といったように、妖怪変化や悪者が主役であることが典型的な歌舞伎にあって、仮面ライダーのように正義の味方が形式上もタイトル上も主役であるジャンルと、根本的なところで融合しえるのか、という疑問も浮かび上がりました。

 今回の国立劇場歌舞伎公演にあたっても、これは高麗屋責任公演であって、高麗屋が主役の舞台ではありますが、どっちの高麗屋が主役なのか、というところでも疑問が残りました。九代琴松として演出もしていて、明智小五郎としても出演している幸四郎が座頭、という見方もできますが、芝居の筋からしても事実上、染五郎の座頭公演、とも見れます。芝居の台詞では、どうして人間豹のようなものが幕末のこの世の中に、どういう理由で出現したのか、という原作では一切触れられていないことまでも明朗に言ってしまいましたが、どっちが主役なのかは、最後まで明確ではありませんでした。

 いや、染五郎には間違いないのですが、どう見ても幸四郎が立派すぎます。大歌舞伎では玉三郎の次に歌舞伎役者らしくなく、しばし孤独感の漂う人ですが、こういう幹部俳優も少ないような公演で、あれだけ見事な存在感があると、半現代劇に、思いっきり古典歌舞伎の世界から大星由良之助が飛び出て来たような違和感さえあります。それが、歌舞伎らしさにつながっていればまだしも、幸四郎の存在が大きければ大きいほど、この芝居の歌舞伎もどきが、あぶり出しのように浮かびあがってくるのでした。(黒蜥蜴の緑川夫人風に朗読ください。)幸四郎も、もうちょっと若ければよかったのでしょうが、役者としての貫禄があり過ぎるたとも思います。確かに人間豹と戦って互角の勝負となるなんて、今月の座組では幸四郎しか考えられないのかもしれないですが。

 染五郎の座頭に不満があるわけではありませんが、大劇場で演じることが前提の今日の歌舞伎役者にあって、芝居(演技)の半径が小さすぎます。まるでハイビジョン撮影を前提のような、顔の小さな表情や、人間豹の姿での動きや台詞まわしなど、スケールが小さすぎます。座頭として芝居を成功させたいのであれば、自分の役や早変わりやワイヤーアクションを間違わないようにする的な小賢しく小手先の成功に注意を払うのではなく、この芝居と劇場全体を成功に導くような責任感と度量の大きさが必要な筈。それなのに、春猿が最初の役、お甲を演じていたときのように、目をパチパチやったり顔をしかめるような大劇場向きではない芝居をするのは、歌舞伎役者として止めていただきたい。

 世話物が大劇場での上演にも耐えられるのは、芝居がそうであるからで、現実には小さな座敷の中の話でも、大劇場の三階までも伝わる芝居(演技)をするのが歌舞伎役者ではなかろうか。いくら原作者の江戸川乱歩が映画好きだったとはいえ、観客が、あそこは顔だけアップの演技というつもり、と解釈しないといけないようなことは止めてもらいたい。染五郎さん、そういうことは、歌舞伎じゃない劇団とハイビジョン映画撮影するときにでもやってください。

 染五郎の人間豹姿を見てて、ふと、亡くなった延若さんのことを思い出しました。同時に、延若さんに演じてもらいたいものだ、とも思いました。顔つきではなく、芸風という意味で。また、50歳過ぎても演じられるくらい歌舞伎らしい人間豹にして欲しかったな、と思うところもあります。

 今回の芝居、企画としてはすごくいいことだと思いますし、まだまだ歌舞伎が元気な証拠でもあるとも思います。これが日生劇場や演舞場ではなく、国立劇場大劇場で上演されたことだけが、ちょっとだけショッキングなだけだとも。

 しかし、初日に来場するような歌舞伎ファン、高麗屋ファンには、歌舞伎らしさの欠如に、大なり小なり不満はあるようでした。

 その一因は、人間豹が後ジテのように後半で本性を現すのではなく、いきなり最初の幕からワイヤーアクションで“怪獣”の状態で出現して、最後の宙乗りを除いては、同じ格好でいたためでもあるでしょう。乱歩でありながら、ミステリアスな雰囲気と恐怖を最後まで持たせるというのではなく、最初から「ガオー!」俺がこの芝居の悪者だ、というオープンさ。芸術的なストリップだって、場末の温泉場のストリップだって、最初は何らかの着物をまとった女性が少しずつ脱いでいくからストリップなのであって、最初から全裸で大股全開だったら、ストリップとは呼びません。猥褻物陳列。この芝居、男と女の色と支配欲に関する台詞がたくさんある割には、恩田=人間豹という存在に猥雑でエロい危なさや野蛮さが体現できていないのも不満。プライベートでは決して負けているとは思えないのですが、はとこの海老蔵みたいな歩く○○器みたいな危なさが染五郎にないのは、ある意味では致命的です。原作の人間豹は、ものすごい目で、好きな女には自制心を失うほどの、酷いキャラクターとして描かれているのですが、目が決して大きくない染五郎は、それを何かで補ってもよかったのでは。人間豹が、近づいたら石鹸の香りがするようなおぼっちゃまでは困るのです。

 神谷と恩田=人間豹を染五郎が二役で勤めたことは、作品の芸術性においても、本当に歌舞伎らしいやり方で、昭和初期の時点での現代劇を幕末の設定とはいえ歌舞伎に移植した以上の快挙でもあった、と本当に思います。であれば、より歌舞伎らしさを演出する上でも、人間豹の衣装なり化粧なり鬘を、お芝居の進行に合わせて変化させてもよかったのではなかろうか。あれだけ粘着質に女性を冒涜するような殺し方をするような存在(もの)であるから、被害者の遺品なり象徴的な何かを衣装などのモチーフとして加えるとか、ワンパターンの殺し方ではなく、前の被害者を更に冒涜するような殺し方をするなど、やりようがあったのではなかろうか。

 ここまで工夫がないと、女を殺しても恩田=人間豹が憎らしく思えないのは、染五郎という個人的な徳と罪なのか、とさえ考えてしまいます。ヒロインが春猿だから、という説もありますが。

 だから、延若さんの顔がつい目の前のチラついてしまうのです。あっさりやるところと、ねっちり悪いようにやるところとのコントラストやバランスが一流でしたから。

 ワイヤーアクションは結構なのですが、ワイヤーのために殺陣が活きてないし、ワイヤーという制約に縛られているだけのようにも見えました。そう、サンダーバードの操り人形が、決してドアを通り抜けるられないのと同じような。古典的な歌舞伎の演出を使ってだって、やろうと思えばやれるものはありますし、屋台(大道具)に仕掛けをしたってよかったとも思います。でも、ワイヤーで飛び跳ねたから超人的な怪人、という演出は、「仮面ライダー」ショーそのものであって、歌舞伎ではありません。幕末の世に妖術、では都合が悪かったのかもしれませんが、大凧に乗るようなことをするのであれば、多少は時代なことをやっても罰は当たりません。だからこそ、今の染五郎が演じられればいいのだ的な幕内のご都合が見え隠れするような手段は講じて欲しくなかった。

 クライマックス、国立劇場の大ゼリならではの三層の大道具には驚いたが、それをやるために、洞窟の場面が非常に間口の狭い空間で演じられているのが残念だった。自分はたまたま直前でも舞台そば、ど真ん中のいい席が当たったからよかったものの、どぶから見てた人はつまらなかったと思います。他にも大道具や場面転換の都合に合わせた演出が気になりました。よく言えばディズニーランドのアトラクションみたいなものなのですが、困ったことは、国立劇場の座席は固定式でビークルではないので移動しないということ。全体的に、国立劇場大劇場の舞台機構を本当によく駆使していたとは思いますが、駆使するあまり、結局は小粒な大道具を組み合わせただけのこじんまりとしたショボさも目立つのです。第一幕の第二場と第三場は同じ舞台に屋台を二つ組んでいるのですが、いくら場面の数としてはイコールだからとはいえ、楽屋を横から切り抜いた大道具の間口と、お忍びとはいえ将軍様が観に来るような舞台の間口が同じようなスケール感でいいとは思いません。

 春猿がどう転ぶか不安だったし、第一場の第一幕での娘はちょっと無理があったと思うし、脚本や演出の都合か、仲睦まじい様子が場面として描かれていなかったので、歌舞伎役者として演技することで「女形」に見てもらうべき存在としては、やりにくかったかもしれない。同じ場では、新内が雰囲気を出すためと、染五郎の二役早変わりを成立させるために活用されていますが、バランスは非常に悪かった。全てが新内に頼っているようで。しかし、二つめの役、女役者のお蘭と明智女房はよかった。お蘭と神谷(染五郎)と二人での痴話話的な会話はよかった。こういう役者同士のやり取りでおかしみや情や風景が伝わってこそ歌舞伎。道具や演出や仕掛けだけが全面に出るのは見せ物。

 歌舞伎らしいといえば、第二幕第一場「団子坂、明智小五郎の家」は歌舞伎らしい場面であった。子役が「十種香」の勝頼の台詞をマネしたり、明智と女房とのやり取りや冒頭の踊りなど。歌舞伎らしくて好きなのですが、誘拐事件で急展開しても、そこに変装や人間豹による偽装工作などがあってこそ乱歩らしさが出るというものだろうに、歌舞伎と乱歩の世界、どっちかが出るとどっちかが引っ込むようなもどかしさ。

 劇中音楽だってそう。都合のいい時は録音したものを使うのに、宙乗りで引っ込む時は、結局、鳴りもの入りの下座音楽。歌舞伎をベースにするのはいいけれども、新作ならではの自由なアイディアと、無策な時の歌舞伎だのみ的な組み合わせは違和感アリで、ずるい、とさえも思う。全体的に観ていて、決して時間をかけて練られた作品ではなく、間に合わせた作品、という雰囲気です。こんなものが新しい演出なら、人形浄瑠璃は200年前から400年も先の前衛的な演出をしていると言える。文楽には歌舞伎で生身の人間が演じることができないような残虐な場面があります。しかも、どんな現代音楽よりも先端的に三味線がバチと糸一本で殺戮の残虐さを表現したりもします。幸四郎さんは、文楽を観ない人なのだろうか。

 そう、これは文楽の世界に再移植したら、もっともっとおもしろくなるし、もっともっとドギツイ表現もおもしろい演出も可能になる類の話。メインキャラの数が不足しているのも、文楽では気にならないことでしょう。人間豹と神谷の一人二役は捨てがたいものがありますが、明智を幸四郎がやってしまうことにより失うものもなくなるでしょう。

 初日は、11:30に始まり、ほぼ定刻の14:06に終演となり、正味2時間05分という、短い上演でした。チケット料金そのままに。祭日の初日でしたが、多少、席があいていました。高麗屋ファンの女性の多さは圧倒的でした。松たか子もお姉さんや染五郎の息子などと観劇。あんな有名人なのに、幕間の見物人はトイレか食事へ行くことしか頭になく、あまり気がついていなかったようです。(よ)

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コメント (3)

こんばんは
初めてお邪魔します。

私は7日(金)に花道脇で拝見しました。

私は幸四郎さんのファンで、かつ松竹新派の元身内でも
あるので違和感はありませんでしたが
(てか役者さんが歌舞伎の役者さんですが新派のお芝居の
ようだと感じました)
回りの方の反応はいま一つだったと思います。

でも、幸四郎さんの存在感
染五郎さんの成長には大満足して帰ってきました。

また、お邪魔させて下さい。

麻衣子:

はじめまして。時々拝見させていただいております。

「江戸宵闇妖鉤爪」、古典歌舞伎好きにはどうやら不評のようですが歌舞伎初級、初心者たちにはかなり好評です。乱歩という題材が良かったのか、いつもは誘っても乗ってこない歌舞伎に興味のない友人たちに「これは行ってみたい」と言われ、すでに2回、計6人を連れていきましたが思った以上に皆の感想が「面白かった!」「楽しかった」「歌舞伎で初めて寝なかった」「また観たい」と嬉しい反応。

私個人は邦楽に拘った演出にはかなり心惹かれましたし斬新なワイヤーアクションなどはこれからも歌舞伎で使用していってもおかしくないな、とは思いながらも脚本が練られてないなとか、もう少し濃密な空気が欲しかったなと思ったのですが、これはこれで歌舞伎の入り口としては最適なのかなと思いました。

(よ):

キュー様、麻衣子様、

 コメントを頂戴し、ありがとうございます。

「江戸宵闇妖鉤爪」は、満足するところとそうでないところがあることだけは確かなようです。どちら寄りで好きとするか嫌いとするところが意見の別れるところではないでしょうか。

 工夫とテンポの良さについてはよかった、と思いますが、逆に言えば、古典歌舞伎のように、ちょっとダラダラしても、同じ空間にいて観ているからこそ登場人物やら物語に感情移入できるということもあるのでしょうが、この芝居に関してはあまりなかったように思います。

 明智が初めて登場する場面の幸四郎や、洞窟での鐵之助さんには、不備のある脚本をおもしろくするだけの、ふくらませるような演技力があるのに、もったいないな、とも思いました。

 ワイヤーアクションを否定するつもりはありませんが、歌舞伎には「ふわふわ」や、最近あまり見かけませんが「割りゼリ」という手法もあります。どちらも手間ひまがかかって、テンポアップにはならないものです。しかも、芝居や演出的にはたいして意味を持たないものかもしれませんが、特に「ふわふわ」は、バレバレのしかけでも、ちょっと不思議で幻想的な時間を共有することによって生まれる、芝居や演者への思い入れというものもあります。猿之助や勘三郎はそういう所がうまいからファンやリピーターができるのです。

 NHKの番組で染五郎が極度の高所恐怖症と語っていたので、滞空時間を少しでも短くするためのワイヤーアクションだったのかもしれません。

 集客のための企画としては成功していると考えますが、来月以降、また乱歩歌舞伎が観たい、という人が増えるのか、染五郎ファンが増えるのかで、成功の度合いが見えてくるのではないでしょうか。

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2008年11月03日 23:18に投稿されたエントリーのページです。

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