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国立劇場十月歌舞伎公演「大老」レビュー

 書き物が大嫌いで歴史にも興味もなく、見物する気ゼロだったのですが、とある理由があって千穐楽に出かけました。いつになく老人率が非常に高かく、ほぼ満席という盛況ぶりで驚きました。昨年もそうですが、史実系の演目は歴史マニアの老人、特におじいさん達がたくさん来るのだとか。盛況といえば、いつも食事休憩に利用する二階のお茶処「さつき濃」も超満員で座れない人がたくさんいました。(ご老人がほとんど皆さんサンドウィッチに甘いコーヒーという低血糖症まっしぐらの食事をされている前で、自分だけ弁当でちょっと違和感。)おまけに、10月27日だというのに蒸し暑くて夕方から雨や雷、稲光に新宿では雹という異常さ。

 無駄話はいいとして、「大老」は予想に反して非常におもしろかった。こんなにおもしろいとは、と感激したくらいです。しかも、眠くなりませんでした。弁松の弁当しっかり食べて、デザートにややトールなカップに入ったケーニヒスクローネのフレッシュケーキまで食べたのに。(ああ、また無駄話。)

 まず、北条秀司による戯曲の完成度の高さに驚きました。何を今更、と叱られそうですが、書き物大嫌いの歌舞伎好きが無条件に「いい」と理解したのですからお許し願いたい。また、吉右衛門もさることながら、共演者の質がすばらしい。特に梅玉と魁春、歌六と歌昇の両兄弟までよかった。ついでに友右衛門と芝雀の兄弟も、と言いたいところですが、友右衛門の口跡凛々しい台詞はかなりよかったのですが、芝雀の一種お嬢様っぽいだけの演技はいまいちでした。(個人的にはジャックにソックリなんで好きなんですが。)国立劇場の復活通し狂言の質なんかと比べてはいけないくらいに、「大老」はすばらしく優秀な戯曲です。

 この公演が図らずも証明したこともよかったと思う。それは、歌舞伎的には幹部俳優をたくさん揃えてはいるものの、世間一般からすれば中村吉右衛門しか有名な俳優が出演していないけれでも盛況な公演だったこと。人間国宝が一人も出てないのは国立劇場の歌舞伎公演としては珍しくないとはいえ、吉右衛門を除けばスター不在。それでも質の高い芝居ができていることの意味を歌舞伎ファンや松竹は理解すべきであろう。

 歌舞伎役者の場合、本当のスターもいれば、歌舞伎好きにとってだけのスターもいれば、松竹としてはスターということ、みたいにスター俳優にも何種類かあるのですが、この公演に限って言えば、吉右衛門は主役ではあっても、スターである必要はなかった。通常の歌舞伎公演であれば吉右衛門のような名門の俳優が主役でなくては、というものだろうが、「大老」については井伊直弼は主人公 (protagonist) である必要性の方が高いと感じました。

 この公演がスター制度を否定した、とまでは言いませんが、スターで動く見物もいれば(今月であってもなくても勘三郎や玉三郎や海老蔵を追っかけるファン)芝居の中身で動く人もいるのです。
先日発表された今年の中期決算短信を読むと松竹株式会社は演劇部門の業績への貢献者として玉三郎と海老蔵の名前を、短い文章の中で複数回繰り返してします。スターはスターでいいとして、松竹は観客のニーズが【多様】であることを本当に把握しているのだろうか、と疑問に思えてなりません。

 さて、芝居ですが、初演と比べるとかなりカットされていることが解説文にもあり、また、プログラムに収録された初演時の各場面ごとの舞台写真でもわかります。確かに物足りない部分もあります。例えば、昔からの事実上の妻であったが世継ぎとなってからは側室となったお静の方(魁春)と井伊直弼との情というか心の結びつきは、最終的には十分表現されるからいいとしても、やっぱりもうちょっと前半で表現されないと「園遊会」での側室ゆえの悲哀に本当の意味での悲しさが出ない。

 第一幕 彦根城外埋木舎で、お静の井伊直弼への愛情は十分わかるといえば分かりますが、芝居でありながら、ここだけ映画みたいな演出になっているのが悔やまれます。重要人物が最初にまず顔見せをして、という意味合いもある場面とはいえ、豆腐十二文のものを十文で買った、といった後にいきるエピソードも大事だが、オリジナルからはカットされている他の場面のことを考えるともう少し工夫があっていいだろう。プログラムには初演時、この場面の後に直弼とお静だけの琵琶湖畔の場面の写真が載っている。二人だけの時間と空間を次回は創ってもらいたい。

 この序幕で問題がひとつ。吉右衛門の芝居の上での年齢設定。芝居の中でも、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されたのが46歳だったことがわかります。今でいうところの満44歳。彦根にも30歳くらいまで暮らしていたわけですから、第一場ではもうちょっと若くなくてはいけない。吉右衛門がいつもの芝居をしていると、いくら文化人井伊直弼でいい歳しているとはいえ、立派なご隠居さんに見えてしまった。吉右衛門が演じることで人物的に立派であることは十分わかるのですが、あれではわかりずらい。

 続いて休憩なしで第二幕 第一場 千代田城接見室第二場 外桜田井伊家上屋敷奥庭の上演。ここから話としてはおもしろくなると同時に、脇役が活躍します。接見室での通訳ヒュースケン役の大谷佳三もなかなかだったし、友右衛門もさまになっていました。なかでも水戸斉昭を演じた歌六が、よかった。最近、役者不足もあって、主役とからむいい脇役を好演していますが、迫力があってよかった。初演の際は延若さんがやってた役ですが、確かに、そういう脇もできる役者が少なくなりました。奥庭で、初めて正室と側室という女のテーマが示されるのですが、彦根時代の場面が欠けているため、お静が本来の女房であるはずなのに足軽の娘というだけで側室となっている悲哀が悲しくもあり、当時の身分制度では仕方がないことでもあり、ということだが、昌子の方がどういう人間であるのか、がイマイチよくわからないのがもどかしい。

 この「大老」が、本当に歌舞伎であるのか。あるいは、国立劇場のような立場の組織が、歌舞伎として演じていいものなのか、という疑問は初演の頃からあったようです。第二幕と第三幕に出て来る外国人を見ていると、女形を使っているから、歌舞伎役者ならではの芸を使っていれば、何をしても「歌舞伎」扱いはOKなんだろうか、という疑問もわきます。

 初演の頃は、幸四郎(後の白鸚)も東宝に在籍していて、松竹の歌舞伎役者をはじめ、いろいろな分野の人達が集結して作り上げたということですが、カットしても頭数だけはものすごく必要とし、なおかつ、ごくごく一部の幹部俳優を除いて複数の役を兼ねている今回の再演も、侍を並べるためと思われる歌舞伎役者ではない俳優さんが何名もパンフレットに写真と名前が載っています。

 30分の休憩後、第三幕の上演。ロビーで現在の藤間宗家の母君(個人的には歌舞伎を観始めた頃の名前、康詞さんがしっくりくる方)を見かけました。所作事なんか無いような芝居なのに、と不思議に思っていたら、第一場 外桜田井伊家上屋敷広庭で、アメリカ人高官をもてなすために能舞台(靖国神社のそれに似ている)で「娘道成寺」のハイライト版を踊ります。なるほど。初演の写真では、玉三郎が今より細い体で「汐汲」を踊っていたようです。芝雀さんの道成寺なんて、お父さんと踊った「二人道成寺」以来、と考えているうちに、アメリカ人役の役者さんが嫌みにならないで品よく「ワタシは、ガイコクジン デース」みたいな演技にほっとしました。ハリスが由次郎で、ヒュースケンが圭三。初めて日本人がアメリカ人と接して、握手を求められたときは、こんな感じだったんだろうな、と思わせるところがいい。井伊直弼にワイフが2人いることに驚いているようですから、ハリスもヒュースケンもモルモン教ではなかったのでしょう。ということは、井伊直弼にお稚児さんがいても受け入れられたのかもしれません。(カリフォルニアの人向けの無駄話です。すいみません。)この場で印象深いのが、写真撮影で井伊直弼(吉右衛門)が正妻(芝雀)と一緒に写り、側室のお静の方(魁春)が一緒に写らないというエピソード。この場を観ているときには気がつきませんでしたが、魁春が足軽の娘であるがゆえの側室待遇とはいえ、井伊直弼にふさわしい品格の高さと抑制があったと思います。こういう場面で、「悲劇的」や「かわいそう」を前面に出し過ぎて女優みたいな演技をされていたら、ぶちこわしであったでしょう。一場にこういうユーモアと悲哀とドラマと、最後の部分の歴史のうねりが避けられない運命であることを入れてしまう劇作の妙には、本当に感心します。ちなみに、矢がすりで女給がたくさん出ていたので、「放浪記」みたい、と思ってしまった私は、この場で掲揚されていた歴史考証上正しい星条旗の星の数が現在の50より少ないとぶつくさ言っていた後ろの席のジイさん並に困った奴です。

 続く第二場 江戸水戸屋敷一室は忠臣蔵並に侍がたくさん舞台上に出ます。水戸家が、井伊直弼に「見とけ」と言わんばかりの敵対をしていたことを表す場でもありますが、久しぶりに友右衛門さんの長くて凛々しい台詞を聞いたような気がしました。普通の年なら、年間通しても、友右衛門さん、こんなに台詞しゃべってない、と思うくらいに。(失礼)でも、中老内藤紀伊守という役はすごく立派でした。素で見かけると、ニコニコしたいいお父さんなんだろうなぁ、という感じで、女形さん特有の気性が感じられることもある弟の芝雀さんとは違うんですけどね。ただ、群衆劇でもあるこの場を大劇場で上演するのであれば、もうちょっと工夫しないと、誰がどういうことを話ししているのかが埋もれてしまっていて、分かりにくいです。

 続いて第三場 水戸城外れの森の中になります。「大老」の話でありながら、水戸藩士のことがよく描かれていて、彼らのエピソードを重ねながら、しかも、こういった役者にとってもいい見せ場を作りながら終幕へ運ぶあたり、この戯曲は本当に傑作です。同時期、国立劇場のために書かれた「椿説弓張月」を三島由紀夫が、自分の観たいものを歌舞伎に強すぎる片想いで書かれた失敗作と評するむきもあるようですが、「大老」について言うならば、歌舞伎役者をメインに据えて女形で女性の役が演じられる前提で元々は書かれたものであったとしても、戯曲そのものの完成度が歌舞伎というジャンルを超越して非常に高いのです。カットされ、改訂されてこれですから、オリジナルはものすごかったのでしょう。最近の国立劇場ではすっかりお馴染みの種太郎も好演でしたが、古関新一郎(歌六)と古関次之介(歌昇)との二人だけの場面が本当にすばらしかった。兄弟でありながら考え方や利害関係が相反する二人だけのやりとりが大劇場の空間に芝居として響くあたりがなんとも言えませんでした。二人とも名優に見えました。歌六といえば悪役顔であまり好感を持ったことはありませんが、先月の「逆櫓」での老け役など、丁寧に感情表現ができる人なんだ、と認識を改めつつあったとはいえ、今月の別の役も含め、ここまで演じられる人とは思ってもいませんでした。自分が無知なだけなんでしょうが。歌昇は、欲を言えば、役としては、もうっちょと若々しさがあるべきところなのでしょうが、歌六の台詞を聞いて返す芝居ができるのはそれなりのこと。

 舞台転換のためと思われる10分の休憩を挟んで第四幕 外桜田井伊家上屋敷奥書院となります。この幕は、前半が屋台を使って井伊直弼が正室とどのような関係にあって、その正室昌子の方がどういう考えであったのかを表し、国立劇場大劇場ならではの大道具のスライドでそのまま奥庭の場面になるのですが、そこで、井伊直弼が大老として、また、その片腕実行役とも言える長野主膳(梅玉)がどういう立場で、どのように世間から思われていたのかがよくわかる場面でもあります。北条秀司が昌子の方をそれほど描き込んでいなかったからかもしれませんが、この場面の彼女は、ごくごく平坦に常識的に井伊直弼のことを思い慕っている、という場面になっています。確かに側室のこともあるのですが、だからどうなのか、という一皮むいた感情はどうなっているのかが分からないもどかしさがあります。むしろ歌昇演じる水戸藩士を孫に持つ琴浦(吉之丞)のほうによっぽどドラマがあります。その歌昇が梅玉に切り捨てられるのですが、梅玉が芝居が進むにつれてキャラが進化するのですが、吉右衛門演じる井伊直弼は、軸足がどこにあるか、よく分からない部分も多いです。井伊家に生まれたとはいえ、14男で家督相続はよもやあるまい、と思われていた人間が、十数年で大老にまでなるのに比べると、第四幕までの吉右衛門は、井伊直弼がどんな風に激動の時代にもまれたのかが、分かりにくいのです。立派な人物・井伊直弼、の繰り返しはいいのですが、この戯曲においてそれは「サビ」ではないはず。「キモ」でもないと思います。

 またまた10分間の休憩があってから第五幕 第一場 千駄ヶ谷井伊家下屋敷一室となります。心象風景的にも道具的にも一番、美しい場面です。井伊直弼がある意味、人生の総括をして、この世に別れを告げる場面でもあります。幕が開くと鶴姫の命日に序幕でも登場した彦根からのなじみでもある仙英禅師(段四郎)とお静の方(魁春)が話をして「一期一会」となり、井伊直弼(吉右衛門)とすれ違うように去る、という前半部分の暗示も素晴らしいのですが、後半、桃の花、雪、そしてひな飾り、と季節感と喜びと悲しみと月日の流れと思い出が流れるように井伊直弼とお静の方、二人だけの場面を美しく包みます。名場面です。第三場 水戸城外れの森の中での古関兄弟二人だけの場面もよかったが、この二人の夫婦の場面は最高です。戯曲ももちろん優れているのですが、この二人だけの芝居で吉右衛門と魁春が、大劇場を満たすだけの芝居をしているのが頼もしくもあり、歌舞伎ファンとしては、うれしい限りでした。こういう場面を観ると、やっぱり「大老」は歌舞伎であるべきなのだな、とも思います。魁春が女形であることは明らかなのに、情景の中で、井伊直弼が彦根時代から愛して来た、変わらぬ恋女房として芝居をし、吉右衛門の役回りを受け止めている芸の質の高さは、本当にすばらしい。私は、菊五郎の次の人間国宝が吉右衛門や仁左衛門や梅玉を飛ばして魁春であったとしても驚かない。昨年の「山科閑居」を観たときから、武家というものを体現できる貴重な役者だと思っていますが、今回の役は、それを超える出来でした。彼女のお付きの婆や雲之井を演じていた歌江さんも活躍。お姫さまを「おシメさま」と発音し、お雛様を「おシナさま」と発音する江戸っ子ぶりがなんとも言えません。

 続いて最後の幕、第二場 桜田門外となります。短い幕で、井伊直弼が史実のお約束通り、雪の中、殺されるだけの場面。おそらくオリジナルでは、もっともっと長い幕だったのでしょう。「桜姫」と同じで、最後の幕は再演では短くなる運命にあるのが国立劇場なのかもしれませんが、筋運びとして簡潔に整理して完結させることばかりではない何かがあればよかったと思う。冗舌にならない美学もわからないではないが、単に暗殺されたという意味以上のものを持った井伊直弼の最後に何かが欲しかった。

 11:30分に開演し、15:55に終わった「大老」を見終わった後、その舞台となったお堀端を桜田門まで歩いて帰りました。大阪ならばともかく、東京で劇場のすぐそばが芝居の舞台だった、というのは、一番最初の平成中村座公演の「法界坊」以来でした。10月、まだまだ芝居がハネた後でも陽のある季節の上演でした。

「パラダイス鎖国」(海部美知・著)が出版されたと同じ年に再演、というのもおもしろいなぁ、と思います。頻繁に通し再演されるようなものではありませんが、再演される時代を映し出すような普遍性のある名作なんでしょう、「大老」は。(よ)

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2008年10月30日 21:38に投稿されたエントリーのページです。

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