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こんぴら歌舞伎(第2部)レビュー スパースター海老蔵

夏祭浪花鑑

「歌舞伎は役者の芸を楽しむもの」などとよく言われます。まさしく、と思うのですが、本当にそうだとしたら今回の「浪花鑑」は歌舞伎ではありません。平成のスター役者を見るだけの演劇イベントと呼ぶのがふさわしい結果でした。

 歌舞伎役者は芸あってこその存在。海老蔵は芸がなくてスター性があるだけの存在のように見えました。その強烈なスター性は、それだけでも余ある説得力も持ち合わせているのですが、どうもスター性にだけこだわっている上に、それだけを頼りにしているようにも見える芝居に仕上げているのが非常に残念です。

 海老蔵のスター性は明らかで、見ているだけでも、おもしろい役者であることに間違いはありません。ただし、あれが歌舞伎の芝居か、と問われれば、ちょっと違います、としか答えようがありません。芸が不在ですから。

 何が不在といえば、まず大坂弁。元は文楽の義太夫狂言ですから、住吉のあたりの当時の方言を綿密に調べることなどしなくても、文楽の大夫さんの語りなどが手がかりとなるのでしょうが、大坂ことばにあまりこだわっている様子はありません。いくら江戸っ子ノリちゃん(勘三郎)から習った初役とはいえ、いかがなものか。2月は松竹座にも出ていたのに、地元の人に学ぶとかしてなかったのだろうか?(文楽座は毎年2月、東京公演ですから不在でしたが。)関西の影響が大きい西日本の四国香川県の公演で、これだけ嘘っぽい大坂弁はいかがなものかと思います。時々イギリス英語っぽくなるだけのアメリカ人俳優によるシェークスピア劇のような無国籍さでいっぱいです。(よく言えばエキゾチック?な「浪花鑑」)

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 また、今回は海老蔵が初めて台詞もきちんとある女形に挑戦ということで、ほぼ沈没を予想していましたが、ここまでダメとは想定外。海老蔵の「藤娘」はその本役の女形には無い茶目っ気がいいと思ったし、「紅葉狩」でもその気迫に拍手を送りましたが、「浪花鑑」のお辰だけは勘弁して欲しかった。大中村やノリちゃんの勘三郎のように兼ねる役者ならばともかく、宗家がやるような役とは思えません。発声もダメ。声をやや高めに出してはいましたがピッチが安定しなくてぶざま。(安定しないなら唄ってもしゃべっても永遠のフォルタメントな美輪明宏みたいにすればよかったのに。)海老蔵は落語を聞いたことがないのだろうか。地声に近いところで噺家は色んな役を演じ分けます。決して裏声ヨーデルしなくて「ちょいと、お前さん」と普通に男の声で話してもおかみさんに聞こえるのが芸。工夫しても女形の声になっていないのは、きっとロクに義太夫なんかの訓練もしていない証拠でしょう。(してたらごめんなさい。)お辰の化粧(かお)もすごかった。あんなキツい感じにする必要がどこにあるのか分かりませんが、登場した時、思わずパパ團十郎の八汐ソックリと思いました。笑い事ではなく、二役早変わりの女形であって加役の女形じゃないんだから、あそこまでキツい感じの化粧(かお)は必要ない。お辰のような性格を表現するならば芝居(演技)で表現すべきであって、化粧(かお)でするようなものじゃない。志村けんの“ひとみバアさん”だってあんなメークやカツラだけに頼ることは無いっていうのに。

 男役をしていても殺陣がうまくないのです、海老蔵は。下手とは言いません。でも、菊五郎劇団の役者がお互いを信頼しきってからんだりするのに、海老蔵は慣れてないのか他人を信じることに興味が無いのかわかりませんが、神経質に殺陣を演じているから、イマイチ歌舞伎になっていません。歌舞伎役者ならではのおおさかさと腹の底にある共演者との信頼関係という意味において、海老蔵は菊之助にも劣るし、松緑とは比較にならないほどダメです。おおらかさが無いとチマチマしてしまいます。海老蔵はそのスター性が大きいだけに、ちょっとでも頭で考えたり神経質になると、手に取るようにわかってしまいます。ましてや金丸座のようなどの席からもよく見えるような小さな芝居小屋では。

 団七という役は「芸」と同時に、ある程度の不器用さとおおらかさが必要だと思います。もちろん、不器用な人間を演じるという器用さも必要なのですが、今回の海老蔵は、ただ単にスター性で押し切っただけのような印象ばかりが残ります。

 そのスター性だけの団七が象徴的だったのが大詰。市蔵の演じる舅・義平次に海老蔵の団七は完敗してました。市蔵も初役であって、決して市蔵の演技が数段上ということではないと思います。確かに市蔵の役への入り方は、かなりのもので、汚い嫌われ役で、しかも最後は物理的に泥で汚される役でもあるのに見事に勤めてます。そういう入り方をしないと出来ない役かもしれないとはいえ。いい意味で期待を超えています。市蔵の義平次は本当にすばらしい。市蔵だけは大歌舞伎並みの芸でした。で、役者としてのキャリアは市蔵さんには及ばなくとも座頭の海老蔵さんは、市蔵の芝居を受けること(黙って聞きながら感情表現をして続く殺しの場へとつなぐ演技)が全くできていません。みじめ。ぶざま。座頭という肩書きに恥じると言ってもよかった。あの場面だけで評価するのであれば。ここまで惨敗するということは、やはり海老蔵には【歌舞伎】役者としての何か基本的なものが欠けているとしか言えないとも思うのです。

 海老蔵の団七は、今どきの若い人にしてはちょっと悪い感じが出ていて若手俳優の中ではピッタリの役所(やくどころ)であることは間違いありません。絵としてはピッタリかとも思います。でも、例えば佐賀右衛門(菊十郎)を使って行き方を教えるあたりは、非常に神経質さが出てしまいます。子役の頃から菊五郎劇団とも共演してるし、菊十郎さんが頼りになる人だってことも十分わかっているとは思うのですが、なぜか信用していないようなからみ方。基本的に脇役の方が主役の方に合せて動けばいいのであって、ラインでリニアにコントロールしなくても、いい所だけポイントでからめばいいだけのことなのに、何をそんなに神経遣っているのか不明。菊十郎さんは殺陣師ですよ。主役に合せるに決まってるのに。座頭ならば、ああいう場面で波長の合う人を配役させることもできるのでしょうが、そういう問題でもなさそうです。

 二幕目「難波三婦内の場」で海老蔵は果敢にも女形の役に挑戦していました。見物の反応としては、女形も見せてくれるということで喜んでいたと思いますが、早変わり二役のためだけの女形披露で、超猿之助的!だと思いました。しかも出て来た瞬間ビックリ。顔がきつすぎてパパの八汐にそっくり。どうしてあそこまでキツい顔にする必要があるのか不明です。粋な話の分かる、男気もある女性の役であることは確かですが、加役ではないのだから程々にすべきでした。いや、本人にはそのつもりがないのかもしれません。でも、ごっつい体に太い首で夏の着物をまとっているのですから、トータルなバランスを考えるべきだったと思います。いかにも昭和の顔の中村屋親子ならともかく、海老蔵は平成の男前。八汐や「身替座禅」の玉の井ではいけません。

 大詰については書いた通りですが、舅殺しの場面は感情のロジックがめちゃくちゃで、イマイチ義平次が殺される理由も、殺してしまった団七の焦りもよく表現できていないのですが、海老蔵というスターの怖さは前面に出ていました。肉体です。危険なまでにエロくもありました。鍛えた裸が危く見えたのです。実際には胸のあたりしか見えないのですが、中高年の役者とは違い、役の設定そのままの若さと悪が匂ってきそうな「裸」が危険でした。ただし、肉体とその匂いがリアルであればある程に、歌舞伎とかけ離れれてしまうような雰囲気になりました。例えば、殺しの最後は古い芝居小屋特有の「井戸」(花道と本舞台とのコーナーにある穴)に義平次を沈める演出でしたが、水と泥こそ本物とはいえ所詮は芝居の世界。肉体の世界を浮かび上がらせたり、団七のそれではなく、海老蔵というリアルな男の肉体をアピールする媒体であってはいけないと思うのです。よく言えば、若い時の三船敏郎が若い頃、あの黒澤明でさえどう扱えばいいのか持て余していた、と言われるようなことが海老蔵の出る芝居では起こっているのかもしれません。しかし、歌舞伎には歌舞伎の「文法」がある。歌舞伎の文法からすれば、海老蔵は持ち余されているのであって、創造的な破壊者であるとは呼べまい。裸についてもう少し加えるならば、顔や腕や脚から判断して、白塗りしてても徳兵衛役の松也くんの方が若くてきれいな肌で、女形もするとは思えないほどしっかりした肉体ですから、海老蔵だけが一人勝ちという配役でもありませんでした。

 その松也くんですが、徳兵衛のような役は初めて演じるとプログラムにも書いてある通り、まだまだ、という感じでした。多少はヤクザな感じも必要な役だと思うのですが、テニスでもやってるおぼっちゃまのような育ちの良さだけが目立ってしまってます。年齢を考えると無理もないのですが。序幕の団七との喧嘩の場面、やはり海老蔵が相手を信用して演じているようなところがないので、松也くんに迷いはなくても、どこか気遣いしながらの殺陣に見えてしまいました。

 三婦役の男女蔵、まだまだ線は細いですが、顔がお父さんにかなり似てきました。今回は年寄りの役で、ある意味、気の毒でしたが、予想以上に奮闘。特に二幕目はよかったし、本当にお父さんによく似てました。その妻おつぎが、海老蔵のおじいさんに弟子入りした升寿さん。ちょっと江戸ののおかみさんのような感じもしましたが、しっかりしています。こんな芸達者な人が普段は歌舞伎座で團十郎の後見したり、月によっては役もなく「用事」をしているだけって、べらぼうな話だと常々思っているのですが、今回はリベンジ。いい活躍ぶりです。升寿さんのすばらしさは、黙っているだけでその役や周辺の風景や設定が見えてくるところ。今回も、真夏の大坂のじっとりべったりするような暑さで暮らす市井の女性を見事に体現していました。衣装の着付け具合が、夏そのもの。工夫を感じさせない工夫が芸というもの。こうゆう歌舞伎の文法、いや日本ならではの芝居の文法が最近では軽視されています。絽の着物を着てるのに季節を忘れてる役者や、雪布が敷いてあるのに普通に歩く役者など、芸のない役者が幹部でも脇役でもいる世の中で、何を主張するわけでもありませんが、升寿さんのような規範が普通に存在しているありがたさをいったいどれだけの人が理解しているのだろうか、とも思います。升寿さんも、まさか成田屋の御曹司が団七を演じ、しかも二役早変わりの女形とも共演するなどとは思っていもいなかったことでしょう。團十郎と一緒の芝居に役で出ていても一歩下がっているようなところがある升寿さんですが、今回は三婦の妻としての役で、ぼっちゃんだからと遠慮しているようでもなく、そういったところでもよかったです。

 大根のリストを挙げるならばら、床屋の亀寿。磯之丞と琴浦を演じた菊市郎と菊史郎の兄弟。(前者はタカアンドトシのツッコミに似てるような気がする。)

 右之助さんが団七の妻とは、ずいぶんな歳の差カップル。悪いとは言わないけれども若手中心で、しかも金丸座のような空間で本当にいいのだろうか、と思ってしまいました。市蔵の悪党ぶりは本当によかったと思いますが、次回は是非、悪党ならではの貫禄をもっと期待したいものです。
 
 金丸座はおもしろい空間で、二幕目が開いて少しして線香のに香りがしたり、焼きごてから火花が出てからちょっと時間差で焦げ臭いにおいがしてきたり。お辰が一旦、舞台から姿を消して再登場する時は、直後の団七への早替りが前提ですから、焼きごての火傷跡は剥がせるように貼ってある仕様になっていたのがよくわかりました。


供奴

 右近ちゃんのソロ舞踊。16歳の少年に洒脱さを求めてもしょうがないのですが、やっぱり若すぎる供奴でした。勢いがあるのはいいのですが、所作板の鳴らし方や、腕の伸ばし方がやり過ぎの世界。もう少し大人になったら再演しているのを見てみたいと思いました。

 残忍な殺人で終わる演目の後に口直しの所作事を付けるのは歓迎ですが、勢いがいいのなら、せっかくだから松也くんと「三社祭」にでもすれば、もうちょっと派手さが出た気もするのですが、地方の都合か。(よ)

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2008年04月15日 20:48に投稿されたエントリーのページです。

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