« 北野幸伯・著『ブーチン最後の聖戦』 | メイン | アメリカ中西部なまり »

映画『サウンド・オブ・ミュージック』は Politically Correct か?

 雑談です。

 タイが好きで何度も出かけていますが、かの王国ではシャムを舞台にしたトンデモ・ミュージカル『王様と私』は上演・上映が禁じられています。先日、初めてその映画版をDVDで見ましたが、あまりのひどさに途中から早送りにしてしまいました。特典映像で、アメリカでのプレミア上映会には当時の駐米タイ大使夫妻が招かれたとのことですが、さぞ驚いたことだと思います。私も『サヨナラ』の“ナカムラ”なる歌舞伎役者を筋肉質の白人(正確にはヒスパニック系)俳優が演じているのを見た時以来の、衝撃でした。

 ミュージカル『王様と私』は、作曲家のリチャード・ロジャースと作詞家のオスカー・ハマースタイン2世のアメリカ人コンビによって書かれたものですが、この2人は『サウンド・オブ・ミュージック』の作者でもあります。両作品に共通するのが、異国の話を英語の台詞と楽曲で表現していること。(そういう意味では『シュレック』シリーズと同じです。)

 『王様と私』の映画は、今となってはオールドファンのためのもので、当時を知らない世代には冗談としか思えない部分が多すぎると個人的には思いますし、ミュージカルとして時々上演されるくらいですので演劇ファン以外にはあまりなじみがないと思います。主題歌ともいえる『Shall We Dance?』は有名すぎるくらいですが。

 当時は大ヒット大評判の映画でも、いま『王様と私』を観て、当時のタイがあのようであったろうと思う人はほとんどいないと思いますし、富士フィルムのCMを知らない若い人たちも主演のユル・ブリンナーを東洋人として見るとは思えません。時を超えた名作でなくてよかった。

 しかし、映画『サウンド・オブ・ミュージック』は幸か不幸か時を超えた名作すぎるのです。オーストリア人が英語で話し歌うというミュージカルならではの「ウソ」はいいとして、1965年(昭和40年)の初公開以来、劇場、テレビ、ビデオ、レーザーディスク、DVD、ブルーレイなどで繰り返し観てしまうと、感覚が麻痺してしまいます。

 異母きょうだいどころか異母異父きょうだいにしか見えないのがフォン・トラップ家の子どもだ、なんて言ってはいけません。カーテンで子ども服を一晩でミシン無しで仕立てる技量は当時の女性として当たり前だったとしても裏地や社会の窓用のファスナーはどこで仕入れたのかなんてツッコミは野暮なことになります。普通の素人では触ることさえできない自動車エンジン部品の取り外し方を知っている修道女たちが存在したって、気にしてはいけません。♪ド・レ・ミの歌♪のシーンにおけるジュリー・アンドリュースのギター演奏のウソくささは、オバーダビングされて不自然になりまくった映画『ラストワルツ』のジョニ・ミッチェルが歌う♪コヨーテ♪並だ、なんて年齢がバレバレのトリビアを披露してもいけません。ザルツブルクからオーストリア=スイス国境まで数時間〜半日程度で歩いてしまうくらいあの一家は全員健脚だったら一家でエベレスト登頂も可能であったろうに、なんて皮肉も禁止です。あの映画の出来事はすべて「史実」になってしまっています。困ったことに…。

 もっと困ったことに、タイ人の友達は私同様、映画『サウンド・オブ・ミュージック』が大好きで歌を諳んじてしまうくらい親しんでいます。お互い、それが英語力の素地になったのかと思えるくらいに。そして、タイ人の友達は、現地へ旅行しても映画『サウンド・オブ・ミュージック』が好きです。自国では上演・上映が禁じられている『王様と私』同様、アメリカ人作家が現地の文化や当時の歴史などを深く正確に反映させることよりも映画化の脚本を担当したライターを含め、あくまで商業作品としてのわかりやすさやアメリカ人ならではの「正義」や「公平感」が基になっている超スーパーウルトラ・アメリカンエンターテインメントなフィクションであるのに。皮肉なことにも思えます。

 『王様と私』も大作とはいえ全編サウンドステージ(スタジオ)撮影でお芝居のような時代劇作品である一方で、映画『サウンド・オブ・ミュージック』は豊富な予算で現地(ザルツブルク)で空撮やクレーンなどを駆使して、かなり大掛かりなロケーション撮影をしたため、Fräulein(お嬢さんという意味で、マリアへの呼びかけに使われる。)と英語でもよく使われるGesundheit(お大事に、という意味。♪私のお気に入り♪の途中、台詞で出てきます。)くらいしかドイツ語が聞こえてこないにもかかわらず、説得力がうまれてしまいました。そして、繰り返し鑑賞されることによって、フィクションが「史実」になり固定観念になり、みんなが洗脳されたり politically correct と思う(べき)ことが歴史となっていることを知らしめています。

 メディア報道と同じではありませんか!

 同じフィクションでも映画『2001年宇宙の旅』は2002年以降も、どれだけリアル(realistic)でもフィクションとしてファンの心をつかんだままですが、映画『サウンド・オブ・ミュージック』は世の中の常識や文化の一部となってしまい、少なくとも英語圏を含む非ドイツ語圏の多くの国や地域で「史実」になってしまっています。

 オーストリアやドイツ語圏で映画『サウンド・オブ・ミュージック』がどのように評価(批判)されているのかは分りませんが、大なり小なり、タイ人(タイ王国政府)の『王様と私』観と似たような反応があるのではないでしょうか?

 日本人が映画『サヨナラ』(マーロン・ブランド主演です!)や『将軍』や『SAYURI』で、日本のイメージを語られたくないのと同じ思いをしているタイ人やオーストリア人がいることは容易に想像できます。

 普段、英語にどっぷりつかって、英語のロジックにも慣れ親しんで、第二次大戦後の世界を勝利国アメリカを通して提示されることが当たり前になってしまうと、通訳者である以前に、日本人として洗脳しているとも言えるでしょう。

 ある時、故・米原万里さんの本を読んでいて、8月15日は「終戦記念日」ではなく「敗戦」の日であることに、気付かされました。

 確かに同日(アメリカ時間では前日14日)はアメリカでは「V-J Day」(Victory over Japan Day:対日勝利記念日)です。アメリカが勝利国ならば、日本は敗戦国。戦争が終わったから「終戦」とは考えたものです。

 英語の授業で、英語の文法的な特徴に「無生物主語」があると習いましたが、戦争を主語に置き換えた「終戦」が常用表現であるならば、日本語もかなり英語化しております。

 「史実」や「正義」も、かなり英語化しているという前提で自分なりの視点を持つことをお勧めいたします。

Surrender_of_Japan_-_USS_Missouri.jpg
写真:ウィキペディアより

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://bobbi.jp/adminsys-blog/mt-tb.cgi/204

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

About

2012年07月22日 00:54に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「北野幸伯・著『ブーチン最後の聖戦』」です。

次の投稿は「アメリカ中西部なまり」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。