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元留学生として思うこと

 今年に入ってから、オーストラリア国内においてアジア系の留学生が襲撃される事件が頻繁に報道されるようになりました。(といっても、普通の日本国内向けのニュースではあまり見かけませんが。)

 特にインド系留学生への暴力が顕著なようで、カレー・バッシングとまで呼ばれています。中国人留学生への襲撃もあって、インドと中国の両政府がオーストラリア政府に抗議した、とも報道されました。私がこの件に関して知ってから半年くらいが経過しましたが、現地で収束した、という話は聴きませんし、数ヶ月も経過しているのに、インド人と中国人の留学生がそれぞれ、抗議デモをした、というニュースまで見かけました。

 思い出してみると過去に交流のあったオーストラリア人はなんらかの嫌悪(ヘイト)を表明する人ばかりでした。一番多いのがアメリカ人嫌い。知人のご主人はオーストラリア人でアメリカが大嫌い。日本人で子持ちの主婦であるその知人が東京ディズニーランドへ子供と行けるのは、ご主人が出張などでお留守のときだけ。日本のことわざでも「坊主憎ければ袈裟までも」と言いますが、自分の限られたオーストラリア人観察でも顕著なのが、ヘイトを徹底的に実行する行動力と信念の強さ。アメリカ嫌いを何度も繰り返し日本人である私に向かって表明し、少しでもアメリカ的な現象や事件などが日本で発生すると「アメリカ化おめでとう」とイギリス人のような皮肉。カレー・バッシングのような自国のアメリカ化をどう思っているのでしょうか。それとも30年前のイギリスと同じだから気にしてないのでしょうか。

 昨年やそれ以前には、留学経験のあるアメリカで巨大ハリケーンや山林火災などの自然災害による被害がニュースに出ると、真っ先に考えてしまうのが、現地の留学生のことです。

 ヘイト・クライムであれ災害であれ、よっぽどの金持ちでもない限り、留学生というのは経済的にもビザ的にも限られた範囲内で生活しながら勉強や研究活動に勤しむ必要があります。仮にヘイト・クライムが発生しているから、と簡単に転居したり、故障の少ない新車に買い替えたりといった自由がありません。ハリケーンだって、現地の人たちでさえ経験のないことは、地縁血縁、場合によっては十分な語学力や文化・社会的な背景に関する知識が不足する外国人は、余計に不利な立場にあります。

 自分もアメリカの大学を卒業する直前(卒論で一番忙しかった時期)にゴルフボール大の雹で車が破壊され、一時的にバス利用で通学したことさえあります。それなりに不便でしたが、災害などで住居を奪われたり、場合によっては学校が一時的に閉鎖された場合、留学生はきついと思います。

 障害者を含むマイノリティーと海洋生物からペットまで動物一般にやさしいのが先進国の証であるかのような行動を取りながら、一方では人種的な偏見に基づいているとしか思えない事象が起こっているにもかかわらず抜本的な対策をとらないような国は、通訳士の資格よりも、偏見やヘイトの無い社会の実現にまず力を入れるべきではないか、と言いたくなります。

 アメリカの大学でボート部に入っていたことがあり、町外れの湖まで練習に通っていたことがありました。チームメートと一緒だとそんなことはなかったのですが、ある時、一人遅れて到着して車から降りて道を横切ろうとしていた際、"Chink!" と若い男性ばかりの車から蔑称を浴びたことがあります。ボートの練習だから、ピッチリしたウェアじゃなくて人種のほうかよ、とツッコミどころのズレが少しおかしくもありましたが、言葉だけの人種偏見と暴力を伴う偏見では恐怖の質が根本的に違います。あの時、付近でアジア系やアフリカ系の留学生が襲撃されたりといった事件がなかったからこそ、笑い話で済みましたが、もし今のオーストラリアの一部都市のように襲撃が複数報道されていたら、それなりの恐怖を感じたことでしょう。

 アメリカでも女性はマイノリティーではないのにマイノリティー扱いされている最大の層だと思うのですが、クラスメートでもあった知人のアメリカ人女性は、スコットランド系でブロンドの青い目。日本人の男から見ると、人種的にも(?)ルックス的にも恵まれていいな、と思ったりしていましたが、あるとき話をしていたら、日本人だからってイヤなこと経験したことある?わたしは女であるだけで、罵声を浴びたり、ブロンドだからバカ女とはやしたてられたりヒドいのよ、と言われ驚いたことがあります。

 アメリカでの生活を通じて、どこの国であろうと、マイノリティーはマジョリティーにイジメられる、という法則に気が付きました。日本で生まれ育ち、被差別部落民でもコリアンでもアイヌでもないかぎり、マイノリティー差別なんて考えてもみないことかもしれないので、外国で暮らしたり、非白人種が白人の国へ留学することの意味はあると思います。しかし、仮に日常生活での言葉だけの差別を受け続けたとしたら。あるいは、身近にヘイト・クライムの被害があったら。

 上記のブロンドの彼女は、知的で論理的でしたが、一度だけ、意見の相違があり「溝」を感じたことがありました。それは、カミール・パリアという女性大学教授がセンセーショナルな本を出版し、レイプされるのは女性の側にも非がある、というメッセージを含んだものでした。自分は彼女のレトリックや新しい視線に興味を持ち、大勢の男子学生が大酒飲むためのパーティをやっているような所へ女性が薄着で出かけるのも悪い的な主張に、知的「常識」に挑戦するある意味、健全な「主張」に思えたのですが、彼女のパリア嫌悪は相当なものでした。レイプはレイプ。

 どこかの国の女性は外国人男性から何十年も前から「イージー」と呼ばれ某オペラのストーリーの正当性の支援を続けているのに、といった話はあえてしませんが、今回のオーストラリアにおける「カレー・バッシング」のニュースを聞き、彼女との意見の相違で間違っていたのは自分だった、と確信しました。アジア人とはいえ男は男。社会的な差別、という点では、論者になることを控えるべきなのかもしれません。

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2009年10月15日 05:55に投稿されたエントリーのページです。

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