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噺家と通訳者は共通点だらけ!? 春風亭小朝・著「苦悩する落語」

 通訳者は黒子、などと、歌舞伎どころか、古典芸能なんて観たこともない、興味もないような通訳関係者、あるいは、通訳者ご本人(まあ、中にはご本尊とでも呼びたくなるようなベテランもいらっしゃいますが)がおっしゃるようで、私のような歌舞伎好きは、ついつい、なんで黒子なんだろう?ブースの中にいてもヘアメークから顔のメークから衣装まで、ピンスポットかブルーライトでもあててもらってるのかな?あれ?上沼恵美子じゃないの?ってくらいのプロ通訳者のかたもいらっしゃるようでして、それなら、黒子じゃなくて、顔も頭も(化粧も鬘も)つけてる後見じゃないんですか?って言いたくなることもありますが、用語には、それはそれは厳しくていらっしゃるプロ通訳者の方々ですから、歌舞伎なんか観たことなくても、調べ上げられた結果でしょうから、反論はいたしません。

 小朝師匠が書かれた「苦悩する落語」、その続編でもある「いま、胎動する落語」、そして、女性のための恋愛黙示録とでも呼びたくなる「あなたがさよならを言われた33の理由」の2冊は2日がかりで読んでしまいました。衝撃だったのは、特に「苦悩する落語」に書かれている噺家(落語家)の世界といい生態が、本当にプロ通訳者のそれらとかなり重なることでした。

 噺家と通訳者の何が同じって、まず、それぞれが個人事業者であること。ここでの通訳者はあえてフリーやそれに近いプロ通訳者に限らせていただきますが、どちらも個人で仕事をしています。噺家も通訳者も、同じ職業に就いているから「仲間」であり「同僚」であるとも言われたり、世間様から、そう見られたりもいたしますが、実際にそんなこと、ちっとも思っていません。自分がなりたい将来像を既に実現されている先輩方を「尊敬」したり、一方的に好きになったりすることはありますが、それぞれ個人が個人的に努力する実力の世界ですから、仲間なんかじゃない。

 噺家の場合、落語協会、落語芸術協会などがありまして、基本的に東京では、このふたつの協会のどちらかに所属してないと都内にある4つの寄席には出られません。正確には、定席と呼ばれる通常の興行のことですが、通訳者だって、サイマル、インター、ISS、コングレなどに所属してないと、国際会議など大きいものには出られませんが、噺家と違って複数のエージェントに所属することは可能です。噺家の世界に近いのはサイマルでしょうか。老舗のプライドが高くてやや粘着質なところもありますがサイマルはサイマル。一番上のクラスを卒業して、サイマルの専属になり、サイマルからの仕事をこなし、母校(?)で教えることもあることも多いようです。まるで北朝鮮のように、気に入った人材は囲い込むような印象もありますが、中には上手な方もいらっしゃって、サイマルから仕事をもらいながらも、インターから派遣されてきてご一緒したのに、今年のサイマル・アカデミー募集パンフレットに写真が載ってる、なんて、金正男か外交官のように出入り自由な人がいたかと思うと、もう、完全に脱北したようにサイマルとは縁を切って「スクールはサイマルでした。卒業後(おそらく一番上のクラスを)、(下のクラスを)教えたこともあるんですけどね」とすっかり過去形だったりする人ともご一緒させていただいたことがあります。スキルも過去形だったりしますが。

 でもね、サイマルはしっかりしたスクールのようです。サイマルへ通っていた同僚の通訳者や、元サイマル生。私なんかは、サイマルっ子って呼んでるですけど、サイマルっ子は訳し方がサイマルっ子。素直な生徒さんが行くのがサイマルなのか、将軍様にそう仕込まれるのかは知りませんが、同時通訳でも逐次通訳でも、サイマルっ子の訳し方は特徴があります。よく言えばそつがないといいますか、非常に優等生っぽく、平均的なレベルは高いです。だから、たとえニュアンスがちょっとズレてようが、直訳くさくて個人的には「え?」みたいな通訳をしてしまっても、さすがプロの仕事、みたいになっているのです。あくまで個人的な意見ですが。だから、ちょっと精度が悪くてもギリギリセーフへ持って行くような感じです。言い換えれば、100%ジャストミートでない通訳をして、仮にクレームが出てもこのように訳しましたと言えるクレーム100%防御的な通訳です。そう、英語の defensive という単語がしっくりくるような。ただ、サイマルっ子の強さは、どんなエージェントへ行って、どんなトライアルを受けても完璧にこなせること。それだけはうらやましい。

 サイマルに限らず、スクールで勉強をきちんとされた通訳者は、本当にすごいなぁ、と思います。個人的な努力やパーソナルな部分でも犠牲も大小の差こそあれ、大きな目標に向かって進んだからには、それなりにあったと思います。でも、たまにいるのが、スクールで教えられたことを愚直なまでに現場で実行する人達。オーディエンスのことを考えないで自分のスタイル(時間配分など)をブースで通したり。スクールでは訳の表現などの柔軟性は教えられても個人としての柔軟性を教えるような場ではありませんから、そんなクルールの生徒がそのままプロ通訳者になってしまったような人が、個人事業者であるために、手を付けられないくらいにマナーや社会性や常識などが独自のスタンダードで存在してしまっている人達。

 噺家も通訳者も、本当にうまい人ってのは限られます。才能や器もあるのでしょうが、下手な人が下手なりに、歳とったまま現場でぼやいたり、ポリシーと称する言い訳や負け犬の遠吠えしてたりってのは共通しています。仕事場所や内容、形態によって、こういうのが好き、などと、ホームグラウンドみたいに思える仕事があったとしても、所詮は、寄席であれば席亭、会議であれば主催者に呼ばれたりOKされてはじめてお客さん/オーディエンスに声を聞かせることができるのも同じ。でも、噺家は、噺家になりたい人間が好きな師匠のところへ弟子入りをして修行させてもらえるのに比べ、通訳者はまずそんなことはできません。サイマルは多少可能かもしれませんが、通訳スクールでは、どのレベルのクラスをずーっと同じ通訳者が何年もってことはありません。へたすると、今期の授業はA先生、B先生、C先生、D先生の4名で分担します、と誰にも上達度をきちんと見てもらえないような状況になりかねません。

 噺家の芸談なんか読んでますと、弟子に稽古つけて、教えることで自分も教わる、なんてくだらないことを言う人はいませんが、プロ通訳者は不思議なもので、スクールで生徒さんに教えることで自分も学ぶことがある、なんてことを言う人が何人もいます。個人的には理解できません。普段からきちんと仕事をして、納得できないことをよく考えて、自分の通訳を第三者的な耳で聞き、自分のなかで健全に批判できる技量があるなら、そんなこと言わなくてもいいと思うんですが、噺家と通訳者との比較において言うならば、お客/オーディエンスの前で普段から仕事してるか仕事してないかの違いじゃないんでしょうか。通訳してるんだけど、オーディエンスのことを考えてない人っています。緊張しているわけでもないのに、自分の訳を聞いてない人もいます。そういう通訳者がスクールで生徒さんと交流することで、いわば、はじめてのオーディエンス体験をして、あ、逆に教えられるって思うのかなぁ、と想像していまいます。

 もう、そろそろ時間なので引っ込みますが、小朝師匠の本を読んでおりますと、どうりで私は噺家にもフリーのプロ通訳者にもなれない理由が網羅されています。噺家でありながら、噺家の生態や落語会の悪いところなど、率直に正面から分析し、批判するところは批判している語り口はなかなかのものです。「噺家もストレスに苦しむ現代人」とありますが、通訳者は、ストレスが顔と言葉に出まくっている現代人でしょうか。

 以上、仕事は楽しく笑顔でやりたいなぁと思っている、男性社内通訳者でした。落語風エッセーにつき、シャレの部分はシャレとして、お流しいただきますよう、お願い申し上げます。

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2008年12月26日 21:56に投稿されたエントリーのページです。

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