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落語「金明竹」のような通訳

 某演芸場で「金明竹」を聴いて思い出したこと。

 以前、勤めていた会社で同僚通訳者と組んだ臨んだ会議でした。逐次通訳だったのですが、彼女がアメリカ人の比喩表現を直訳して意味不明になりそうだったので、割って入ったことがあります。懸案の話が進展したら、皆さんにお知らせしますよ、という意味で、We'll knock on your door. みたいなことを言ったのに、訳が「皆さんのドアをノックします。」だったので、こっちが慌ててしまい、答えがわかっていて、先程の表現は figurative language ですよね?と確認したことがあります。

 同僚/同業者の仕事内容に指摘したいとも思いませんし、できるならしたくない、と明らかに訳がちょっとおかしい、と思っていてもしない主義です。それが良い悪いはともかくとして。会社の役員がバックアップでなんかあったら通訳してくれ、とオブザーバー状態で何の背景状況も知らせれていない会議に入ったらフリーの方がいらしていて通訳していたのですが、ズレまくり。そんなことなら最初から社内通訳者を使えばいいのに、なぜかそういうことにはならなかったようでした。そのバイリンガル役員は、途中で、そのフリー通訳者の訳を訂正しろ、みたいな合図をするのですが、私は通訳席に座っているわけでもなく、会議の目的や背景などを知らないので安請け合いはしたくないですし、姑のような性格の役員であることを知っているので、最後まですっとぼけたこともあります。

 訳がおかしいなら訂正や付け加えをするべきではないか、と思う部分もありますが、パートナーとして、あるいはサブないしメモ取りとして同席しているならば、いくらでも協力しますが、ベンチ入りしていないのに外野からコメントや訳の訂正をはさむのは、ある意味、不適切だと考えます。(ベテラン担当者が何か付け加えるならともかく。)通訳席なりブースにいて仕事モードで集中していないと、自分の解釈に自信が100%持てないこともあります。通訳しない場合、たまに会議でメモしていて、通訳の理解と自分の解釈が異なってしまい、結果、通訳が正しかった、ということを何度も経験していますので、通訳者でも、通訳スイッチが入っている時とそうでない時の自分の力の差を分かっているのも自分。

 と、以上のようなオチの無い話でも書こうかと思っていた今日、とあるDVDを音声解説で見ていたところ、とんでも日本語字幕に遭遇。コメディで裸の彫像が出て来る映画なのですが、appendage を附属品のように訳してしまい、実は男性シンボルのことだ、ということが伝わってなかったり。

 一番の傑作は statute of limitations(時効)を statue of limitations と取り違え「極限の像」と訳していたこと。他作品からの借用について話をしていて、冗談とはいえ訴訟に関する話をしているのですから statute しかあり得ないし、実際、英語字幕でもそう書かれているのに。

 若い頃から知らないことを指摘してくれたりする人のことはありがたい、と思うようにしています。言い方がキツい人もいますが、無視してスルー人よりは遥かに思いやりのある人でないとできません。だから自分も指摘すべきことがある時は、休憩中や仕事が終わった後、パートナー通訳者本人に直接言うこともあります。相手が年下であろうと自分よりキャリアの長い通訳者であっても。ただ、説明しても「そんなこと分かってます。ヨーロッパ訛がきつくて聞き取れなかっただけです」などといったリアクションされることがほとんどなので、バカバカしくなることも多いです。逆に、言っていただいてありがたい、みたいなリアクションするフリー通訳者に限って単なる用語マニアだったりします。(いますよね、仕事中でもパートナーのサポートするよりは自分の知らない単語が出てくる度に電子辞書に集中して、結果、仕事に集中していない人。)

 個人事業者でボキャビルと用語集集め以外に成長がないと思っているフリー通訳者と、社内通訳者がベストな自分との乖離は永遠のようです。

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2008年12月06日 16:40に投稿されたエントリーのページです。

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