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平井堅が通訳に不向きなワケ

 先日、平井堅のコンサートにはじめて行きました。本音を言えば不本意な“付き合い”ですが、人間観察が好きなので、ファンの行動でも観察すればいいかな、と思いながら観て(聴いて)いたのですが、平井堅の歌唱で気になったのが息継ぎの多さ。平井堅って音程も微妙にズレてるけど、息継ぎの入れる場所も微妙におかしい、と思いました。

 後日あらためて平井堅の楽曲を聴くと、CDでも【息】がうるさい!この人、同時通訳者向きじゃないなぁ、とも思いました。本人が作詞作曲したことになっていますが、まるで他人が作曲した作品のようにフレーズの途中でブツ切りで息継ぎをしています。要するにわかってないように聞こえるのです。同時通訳をしていて、話者がどういう方向へどういうメッセージを伝えるために話を進めているのか分からないと言語(ことば)としても意味的にも“ブツ切り”な訳出しをしてしまうことがありますが、平井堅の歌唱法はまるでそんな苦しい同時通訳の現場を再現しているような息継ぎなのです。

「瞳をとじて」(作詩:Ken Hirai、作曲:Ken Hirai)

【息】朝目覚める度に【息】 君の抜け殻が【息】横にいる【息】
ぬくもりを感じた 【息】いつもの背中が【息】冷たい
【息】苦笑いをやめて 【息】重いカーテンを【息】開けよう【息】
眩しすぎる朝日【息】 僕と毎日の【息】追いかけっこだ
【息】あの日 見せた泣き顔【息】
涙照らす夕陽 肩のぬくもり【息】
消し去ろうと願う度に【息】
心が【息】 体が【息】 君を【息】覚えている【息】 Your love forever
瞳を閉じて【息】 君を描くよ【息】 
それだけでいい【息】
たとえ季節が【息】 僕の心を 置き去りにしても

 息継ぎや息の音が聞こえるのがまずいとは思いません。映画『カポーティ』では、フィリップ・シーモア・ホフマンの演じるトゥルーマン・カポーティが話始めるタイミングで台詞の直前に入る息の音が非常に効果的かつ印象的でした。また、今年3月、国立劇場(「鑑賞教室」)で観た中村芝雀の葛の葉も、さいご花道の引っ込みでこらえ泣きとも聞こえる息はよかったです。

 しかし、同時通訳者は役者でもなければ表現者でもありません。不用意な息や息継ぎは不真面目な業務態度や意見の表明と取られかねません。マイクに入るような息継ぎは可能な限りしてはならないことですし、先輩通訳者がパナガイドのマイク位置にこだわってたり、こだわり過ぎて聞こえにくい、と文句を言われたりといった場面に出くわしたこともあります。

 同時通訳ブースやサウンドエンジニア付で仕事をされる人達には関係の無い話でしょうが、社内通訳者は日常的に簡易同時通訳機器と戦っていると言ってもいいでしょう。また、ブースで通訳をしたところで自分の声をモニタリングしながら同時通訳をすることは、ほとんどの人にとって不可能でしょう。ということは、同時通訳者は訳の質だけではなく、自分の口から出る non-verbal な部分についても気を付けたほうがいいということになります。

 決して早口にならない一部トップクラスの同時通訳者の訳は、こういう意味でもスキが無いのだ、と改めて思った夏でした。

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2008年07月24日 21:44に投稿されたエントリーのページです。

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